mitsuhiro yamagiwa

一四

 人間ならざるものの行為主体性へと気づきは、語り(ナラティヴ)の伝統においてもっとも顕著に見いだされる。

 神学者マイケル・ノースコットが指摘するように、「ユダヤ教の中心には、ことばや文章よりもむしろ大自然の猛威や〔驚くべき〕出来事を通じて出会われる神がいるのだが、それとは対照的にキリスト教やその後のイスラームは、天候・気候や政治権力にはあまり左右されずに、ことばや文章により多くを託すタイプの宗教である」。

 人間ならざるものを沈黙させるという夢は、近代化された現代社会のど真ん中においてさえも、完全に実現したことはない。実際のところ、人間ならざるものの行為主体には、テクノロジーにぴったり寄り添っていられるという不気味な能力をもつという側面があるように思われる。

 人間ならざる諸存在の行為主体性をめぐる謎の実体は、それが〔最近になって〕あらためて認知されるようになったことにあるのではなく、むしろ、それへの気づきがそもそもどうやってーーすくなくともここ二~三世紀のあいだ支配的であった思考や表現の様式の範囲内では抑圧されるに至ったのか、というところにある。

一六

 ラトゥールの議論によれば、〈近代〉を駆動する誘因となる推進力のひとつに「分離(partitioning )の企図がある。その意味するところは、〈自然〉と〈文化〉のあいだに仮構された溝を深めていくということだが、その際に〈自然〉は排他的に自然科学の領域へと囲い込まれ、その領域への〈文化〉の立ち入りは禁止される。

 いったいどのようにして、想像力の領域と自然科学の領域はこれほど明確に分割されるに至ったのか。ラトゥールによれば、「分離」の企図はつねに、かれが「純化(partification)」と呼ぶ関連事業によって支えられてきた。「純化」の目的は、〈自然〉の領域への〈文化〉の立ち入りを禁止することにあり、〈自然〉にかんする知は全面的に自然科学にゆだねられることとなる。

 「これらはみな、おなじ深い井戸から汲み上げられたのだ。われわれの日常世界から切り離されたどこかにある想像上の異世界。ことなる時間やことなる次元、精霊たちの世界へとつながる扉のむこう、既知と未知を分ける敷居のあちら側。SF、思弁小説家、検と魔法のファンタジー、スリップストリート小説ーーこれらはみな、「奇譚(wonder tale)」というおなじ大きな傘の下にまとめることができそうだ」。マーガレット・アトウッド

 人新世とは、まさに、わたしたちの世界とは切り離され、ことなる「時間」やことなる「次元」に位置づけられるような想像上の「異」世界のことではないのだ。たしかに、地球温暖化が引き起こす諸事象は、「奇譚」の世界とは似ても似つかないものではあるけれども、今日わたしたちがノーマルだと考える尺度からすれば、多くの点で〈不気味なもの〉としか言いようがない。実際、それらの事象がこじ開けた扉のさきには、さまざまな人間ならざる声によって活気づけられた宇宙、「精霊たちの世界」と呼んでも良さそうな領域が広がっているのだ。

『大いなる錯乱 気候変動と〈思考しえぬもの〉』アミタヴ・ゴーシュ/著、三原 芳秋・井沼 香保里/訳