2-6 観客かエンジニアか
記憶の形成について、われわれはふつう、知覚したものを記憶すると考えている。
しかしベルクソンは「記憶の形成は知覚の形成の後に続くのではなく、それと同時である」とい う奇妙な主張をしている。仮に記憶が知覚の後に形成される、つまりそこに時間的なギャップが あるのであれば、知覚してから記憶するまでのあいだに知覚内容を保存する何かが要請されるが、 その「何か」を記憶と呼ばずして何と呼ぶのか。「現在の記憶」はこのような論理的な困難を解 決するための思弁的な想定である。つまり、ベルクソンによれば、現在の知覚の裏面にはそれを ミラーリングする現在の記憶がつねに張り付いており、両者は厳密に同時であり、まったく異質 でありながら同一の内容を保持している。
彼は知覚と記憶の関係について、一方が物質的で他方が非物質的である異質な構成要素(文字通 り「物質と記憶」)が現在という一点を取り出すなら厳密に同じように形式化されると考えてい ると言える。
デジャヴュにおける、私は今この状況と厳密に同じものを経験したことがあるという奇妙な確信 は、ベルクソンによればある意味で正しいということになる。というのも、そこで私は今まさに 見ているものを思い出しているのであり、記憶は過去の出来事についてのものであるという前提 を外すならばそこに不整合はないからだ。!経験的に記憶がつねに現在から隔たった過去と結びつくのは、たんに現在の記憶を想起しても何 の役にも立たないからであり、デジャヴュは「無意識の底にとどまっていたはずの「現在の記憶」 が突然出現したならば生じるような現象」である。感覚 – 運動的なハリのある身体からの剥離が 現在の記憶を呼び込むのだ。
純粋な潜在性は現働化されることはない。
それは現働化されることなく、つまり別の現働的イメージのうちに現働化する必要はなく、それ 自身の現働的イメージに対応している。その場における sur place 現働的 – 潜在的回路であって、 推移する en déplacement 現働的なものに応じた潜在的なものの現働化ではない。
「潜在的イメージ」とは、現在の記憶と現在の知覚の完全な同形性に対応している。「現働的イメー ジ」とは意識化されたイメージ、あるいは感覚 – 運動図式に組み込まれたイメージである。それに 対して「潜在的イメージ」とは無意識的な記憶であり、「現働化」は想起によって記憶を意識的 行動に役立てることを意味する。したがって「推移する現働的なものに応じた潜在的なものの現 働化」とは、変化する状況に応じて適切な記憶を呼び出すことを意味する。「有機的イメージ」 は感覚 – 運動図式に想起という能力の働きを組み込んだものであり、ドゥルーズはここで運動イメージの体制を記憶の観点から捉えなおしている。記憶の有機的な用法は映画において、いわゆ る「回想シーン」や夢として現れる。記憶への沈滞はあくまで「お告げ」としてのフィギュールの 探求のためになされ、それが現在の行動に役立てられ、あるいは行動を意味づける。
ポイントは現働的イメージと潜在的イメージの時間的な距離であり、この距離が増すほど行動は象 徴的な価値を帯び、記憶は夢幻的なものとなる。
それに対して結晶イメージは「その場における現働的 – 潜在的回路」であり、回路の拡張の果てに あるのではなく、知覚と記憶の往還関係そのものを条件づける最小回路において見出される。「結晶が示すもの、あるいは見せるものは、時間の隠された基礎、つまり移行する現在と保存される 過去というふたつの噴射への時間の分化である」。現在は知覚と記憶に分身化し、デジャヴュに 囚われた身体は行動を剥奪される。見ているのか、思い出しているのか、見ているものを思い出 しているのか、思い出しているものを見ているのか。
「現在の記憶が、時間の縁において引き止められ、実際に経験されるのは、つねに記憶イメージ という形式においてであり、しかしイメージとして展開される記憶はすでに現働的なものになって いる」。
あらゆるイメージが運動イメージであり時間イメージ的でもあるのであって、なぜこれこれの作品 でしかじかの概念について語り、別の作品では別の概念について語るのか、という問いから究極 的には逃れられない構造になっている。
結晶イメージが示す二重性(知覚と記憶の同時的な重ね合わせ)は、単一のショットやシーンに あらわれるものではなく、作品における個々のモチーフから物語の構造にいたるまでを貫くこの「空間のタイプ」と結合している限りで、作品へと適用される。
『非美学』福尾匠/ 著
避けがたい錯覚 »