『精神現象学』においてヘーゲルは、自意識は受動的な自己観察の結果としては現れないと指摘する。死にも通じる実存的なリスクを引き受ける状況や、対立における闘争を通して、われわれが他の主体によって危険にさらされるとき、われわれは自分自身の存在、自分自身の主体性に自覚的になる。こうして「美的自意識」について比喩的に言うことができる。それは、他者が住む世界を美学的に見るときではなく、われわれ自身を他者の眼差しにさらし始めるときに現れる。芸術、詩、修辞の実践は眼差しに対するセルフ・プレゼンテーションに他ならない。それは危機、対立、そして失敗のリスクを前提としている。
われわれは皆、コミュニケーションし、活動を始めるためには、ヴァーチャルな「アバター」、つまり人工的な生き写しを作らなければならない。
公の場に行き、今日の国際的な政治のアゴラで活動を開始することを欲するものは誰でも、個別の公的なペルソナを作らなければならない。
公の人間もまた商品であり、公の場に行くことに向けてのあらゆる身振りが、無数の利益享受者と潜在的な株主の利益に役立つことは疑いない。
美学的な自意識と自己生成的なセルフ・プレゼンテーションが出現するのは、そもそも他者、社会、権力がわれわれから作ったイメージに反対する反応、必然的に論争的で政治的な反応である。
明らかに、プロの芸術家は最初から自己開示のプロである。しかし今日では一般的な人々もまた、いっそう美的に自分に対して意識的になりつつあり、いっそうこの自己生成の実践に巻き込まれている。
われわれの現代の性質はしばしば「生活の美学化」という曖昧な見解で記述され、定義されている。この見解が常に適用されることは多くの点において問題である。
しかし、誰がこの態度の主体なのか?誰がこのスペクタクル社会の鑑賞者なのか?
しかし美的な自意識の見解と、詩的、芸術的実践は、世俗化され、神学的含意を取り除かなければならない。美学化の行為にも作者がいる。われわれは常に「誰が何の目的で美学化するのか」という質問を問うことができるし、問うべきである。美学の分野は平和な思索の空間ではなく、異なった眼差しがぶつかり、戦う戦場である。
コンセプチュアル・アートはわれわれに鑑賞の対象としてよりも、コミュニケーションの詩的な道具として形式を見ることを教えた。
芸術作品において、そして芸術作品を通して、創設され、伝達されるものとは何なのか?
それは芸術においては、自己提示を通じて自意識に達し、それ自身と意思疎通をする主体性である。
もちろん、われわれの文化は神という観察者の喪失を埋め合わせる多大な努力をしてきた。しかしこの埋め合わせは単に部分的なものにとどまっている。
社会政治的空間で働く主体は、自分のプライヴァシーの権利、つまり自分の身体を隠したままにするために絶え間なく戦っている。
われわれのアイデンティティを登録する官僚的な形式は、興味深い主体性を生み出すにはあまりにも素朴である。したがって、われわれは単に部分的に主体化されているだけにとどまっている。
現代美術は、いっそう多くの、そして微妙な自己主題化の戦略にわれわれを直面させる。
そこには現代の政治の領域の中にアーティストが自分を位置付けることも含まれる。これらの戦略は、様々な政治参加の形式だけではなく、あらゆる私的なためらい、不確かさ、そして普段は権威ある政治主導者の公的な人格の下に隠されている失望を表明する可能性を含んでいる。ここでは芸術家の社会的役割に対する信念は、その役割の有効性に対する深い疑いと結びついている。
芸術家の主体性とアイデンティティは芸術実践に先行しない。それらは結果であり、この実践の成果である。
むしろ、それは多くの要因に依拠しており、公衆の期待はその要因の一つである。
公衆が芸術家に徹底された可視性と自己透明化を生み出すことを期待するのはこのためである。
芸術家は最初から、すでに存在する公衆に対しての自分の透明化を考慮に入れなければならない。
セルフ・プレゼンテーションの主要なメディウムとしてのインターネットの出現は、われわれはもはや芸術を生み出す「リアルな」芸術空間を必要としない結論へとわれわれを導くかもしれない。
インターネットもまた、(初期にはしばしばそのようなものとして賞賛されたものだが)個人の自由の空間ではなく、何よりも企業の利益によってコントロールされる空間であることを忘れるべきではない。
インターネットが、ある理論的思考において、非物質的な作品という夢のような考え、ポスト・フォード主義の条件などを生み出してきたのはこのためである。これらの考え全てはソフトウェアに関する見解である。インターネットのリアリティはそのハードウェアの中にある。
伝統的なインスタレーションの空間は、普通にインターネットを使用している間はいつも見過ごされているハードウェアを見せるのにきわめて適切な舞台を提供する。
人は、コンピューター・ユーザーとして媒体との単独のコミュニケーションに没頭する。自己忘却、自己自身の身体に対して無自覚な状態へとおちいる。
展示空間の内部で鑑賞者によって遂行される旅程は、インターネット・ユーザーの伝統的な孤立を弱める。
さらに重要なのは、他の訪問者が鑑賞者の視野に迷い込むことである。このようにして訪問者は自分もまた他人に観察されていることに自覚的になる。
しかし、失敗、不確かさ、不満足はアーティストだけの権利ではない。プロの政治家とアクティビストは不満足と不確かさを自分の公的な人格の陰に隠すことである。
なぜならば失敗は、成功した時よりもはるかによく行動の背後で遂行する主体を明らかにするからだ。
『流れの中で インターネット時代のアート』ボリス・グロイス/著、河村彩/訳
一回的に在る »