mitsuhiro yamagiwa

デザインは人間以外の種や物質との関係において搾取的である。非人間たちは人間が使用するために発掘され、人間が使用するためのものへと矮小化されるのだ。このことは、人間の進歩や完璧な人間性といった理想がひとつの到達点なのだという考えに問いを投げかける。またデザインに関わる人々にとっては、その理想への到達を支えるのがデザインなのだ、という考えもまた問い直されることになる。ここで、人間の啓蒙を信じるという人もいるかもしれない。つまり「人間性」は、人間ではないものをケアするという理想的な状態に至ることができるはずなのだと。端的に言えばそれは、人間と呼ばれるもののなかに一切「その他の人間」を作らないということであり、動物の虐待と絶滅を終わらせることであり、そして豊かな生物圏と積極的に共存することを意味する。あるいは私たちは未来への欲望を起点にするのではなく、むしろ、人間は他の種とは区別されるものの、あらゆる非人間や物質と同一の運命に巻き込まれているという現状理解に基づいてデザインを再考する方向へと転換していけるのかもしれない。

つまり私たちは、人間主体とは創発的で誤りやすいものであり、ヒューマニズムが提示するような普遍的理想を目指すものというより、差異を問うものだということを受け入れなければならないのだ。

ポストヒューマニズムは自己省察的な人間の理性的推論の力から距離を取り、状況的、部分的かつ多重的な知る方法へと焦点を移行させる。

そしてこの謙虚で共有された立場からこそーーこのような立場自体がすでに大きな前進なのかもしれないがーー、人間ではない種や物質とともに私たちがこの世界でよりよく共存するための、代替的なアプローチが生まれることになる。

私たちは人間以上(モア・ザン・ヒューマン)の視点を得ることと引き換えに、支配的な人間の権力という幻想、およびその権力のコントロールを失うことになる。しかしその成果として得られるのは、この絡みあいにおいて私たちは想像よりもずっと変容的であり、その変容はどう考えてもコントロールなどできないという知識だけだ。人新世と呼ばれるいまの時代は、この難問が最も顕在化する時代である。生物圏における人間の存在は地質学的なスケールに達しており、その影響は明白で把握しきれないほどである。

例えばハラウェイにとって、関係より前に存在するものはない(Haraway 2003)。存在するものたちは独立した実体ではなく、世界のうちで形成される関係によって定義されるのである。マリア・プーチ・デラベヤカーサはハラウェイが示したこの関係性を(ともに考える(thinking-with))と表現するが、この姿勢ゆえにポストヒューマニズムはあとで考えるのではなく、ともに考える(Puig de la Bellacasa 2012)、つまり常に他の人間、テクノロジー、モノ、動物たちとともに考えるよう問いかけている。

また、テクノロジーはデザインすることの結果だと考えると、デザインは人間であることの基盤をなすと考えられる(Winograd and
Flores 1987)。アン゠マリー・ウィリスはこの関係を二重の動き)と呼ぶが、これは人間が世界をデザインするとき、世界もまた人間をデザインし返すということを意味している。より簡潔に言えば、〈デザインはデザインする〉のだ(Wilis 2006)。このプラグマティズム的解釈は人間中心デザインの根底にある道具主義や合理主義を批判し、方向転換させることを目的としている。つまりここでは、この世界で人間であることの「可能性の地平」が機能主義の関心事に矮小化されてきた、あるいは人間の認知の心身二元論の枠内でしか想像されてこなかったと主張されているのだ(Willis
2006 ; Winograd a nd Flores 1987)。

ポストヒューマニズムの文脈において、ユーザーとは誰か、エージェンシーと権力はいかに分配されるのか、デザインにはいかなる新たな知識が必要なのか、倫理はそのようなデザインにいかに反映され埋め込まれるのかと問いかけている。

人間は、根源的に「人間ではない」もののそれにもかかわらず人間を人間たらしめてきたさまざまな形のテクニシティ(technicity)や物質性と共進化してきたのであり、その意味で人間は根本的に補綴的な生物 [prostheic creature 補綴とは義肢などで形態・機能を補うこと]である。このことを記録することで(ヒューマニズムにとっては逆説的なことに)、我々は人間の特異性に注意を払うことになるのだ。

人間はモノと「共進化」してきたのであり、私たちは「補綴的な生物」なのだという根本的に異質な人間理解を強調している。つまり人間はテクノロジー、物質、非人間的な存在と深く結びついており、それらは私たちの一部であるとともに、また私たちを形成してきたのである。これは明らかに、モノがデザインのなかで果たす役割のみならず、デザインの役割そのものを再考する扉をひらくものである。

モノとは、人間と非人間の両方によって生み出された非人間のことである。このモノは具体的であると同時に概念的なものでもある。というのもこの用語は、すでにデザインされたものを新たな方法で記述すると同時に、デザインされうる何かを指し示すものでもあるからだ。モノは私にとって特定の具体的な実体であり、埋めこまれ状況づけられた、経験的なものだが、モノはまた流動的で明確な境界をもたない可能性があり、そして不可逆的に関係しあっている。

モノが具体的であると同時に概念的であるという考え方は、デザインと強く共鳴する。例えばデザインのさまざまな考え方のなかでよく使われる概念として、デザインは「究極の特殊」であるというものがある(Nelson and Stolterman 2012)。これは、デザインの成果は概念的なものと物質的なものを同時に表現するという考え方のことである。

世界はモノを通じて媒介されているのであり、モノは私たちを通じて媒介されているのである。第二の脚は〈生気的物質の集合体〉だ。

〈モノ(thing)〉の語源は、集まるという意味の動詞でもあり、また集まりを意味する名詞でもある。この意味でモノはイームズチェアの例で見たように、問題や関心を集めるという意味で政治的なものである。一方でモノはまた、これらの問題に関与するために集まる、集合するという意味もある。この両方の意味から、モノは情動の問題でもあり、倫理的な実践を要請するということが明白に示唆されるのである。

デザインするとはどういう意味かという問いは、デザインされているのは何かがわからなければ意味をなさない。この根底をなすのが〈志向性(intentionality)〉という概念である。この志向性は、人間は世界から独立して存在しているのではなく、人間は世界に向けられている、言い換えれば、人間は何かとの関係のなかで理解されるということを明らかにする。フェルベークが説明するように、人間は単に考えたり、見たり、感じたりすることはできない。むしろ人間は「常に何かを考え……常に何かを見て……常に何かを感じる」のである(Verbeck 2008,388)。ポストヒューマニズムの言葉で言えば、デザインすることの意味を知るためには、〈何かをデザインする〉ことの意味を問う必要があるのだ。

そして私たちがいろいろな〈何か〉を考えたり、見たり、感じたりすることができるのとちょうど同じように、デザインするとは志向性が多重であるということなのだ。私たちは、〈いろいろな〉何かをデザインすることができるのである。

ハラウェイは、すべてを見通せる脱身体化された知る主体よりも、知る主体とその身体化を説明する方がより客観的であると主張している。結果としてノマド的実践は、交錯したり発散したりしながら、さまざまに状況づけられたデザインの知識を提供することになる。」

〈モノは変容をもたらす〉。これは最初に見た、私たちはテクノロジーと切り離されていないという特徴から生じるものだ。ここではさらにその意味合いを拡張し、私たちとモノとの不可分な関係は互いを変容させあうものだということを捉えていく。

モノはそれぞれのモノに固有の方法で人間の知覚や行為を形成するのである。

つまり私たちの世界は、人間とモノが一緒になって形成されている。哲学的な用語で言えば、人間とモノは共同構成 (co-consituted)されているのだ。技術的媒介は、モノと世界を特権的に形成するものとしての人間を脱中心化する。

モノをデザインすることは人間と世界を変容させるという点で強力なものである。一方でこの主張は、デザインにおける人間の役割は、共有され、部分的であり、置き換え可能なものであることを明らかにしている。

〈モノは関係的である〉。このことが意味するのは、人間、モノ、そして世界はお互いの関係のなかでしか理解できないということである。

モノは真空状態で存在するのではない。むしろモノはさまざまな関係、構成、ネットワークのなかに埋めこまれているのであり、これらがモノがどう解釈されるかを決定するのである。

モノは〈差異を伴って埋めこまれている〉(Ihde 1990)のだ。このことからアイディはテクノロジー、つまり本書で言うモノは本質的に曖昧であり、モノは本質というよりは関係にかかわる、複数の知覚と意味で構成されていると考えている。

モノはアッサンブラージュという形で、集団的なエージェンシー、あるいは「行為のアンサンブル的性質や人とモノとの間の相互接続性」(Bennett 2010,37)に属している。

もし責任がモノと共有されているとするなら、モノも政治を共有しているのであり、またモノも人間と同様、論争にひらかれている。

例えば無指向性のマイクは人間が通常フィルタリングする背景音を記録することで、部屋のなかのさまざまな音を明らかにする。

デザイナーであることの意味、あるいはデザインすることの新たな意味をわずかでも理解するためには、人間はすでに非人間であり、モノもまたモノをデザインすることにおいて、生気的な=重要なエージェントであることを認める必要があるだろう。

今日のデザインにおいてデザインの関心事が〈デザイン課題〉に限定されているからだ。その結果デザイナーはモノの政治に関与したり向き合ったりすることを免れているのだが、これはモノの政治から生じる意図しない帰結を他者(非デザイナー)に押し付けるという事態を生み出している。

モノに語らせるということは、関心の問題を聞いたり可視化したりすることであるが、これは〈モノの政治〉とも呼ばれる(Latour 2005a)。

倫理とケアは非人間、物質、モノとの関係から立ちあがるものであり、先天的に、あるいは固定された価値として生じるのではないのだ。

「バイタルマテリアリズムの民主主義理論は、語る主体と無言の客体との間の隔たりを一連の差異的傾向と可変的能力に変容させようとする」(Bennett 2010,108)

無言のモノに囲まれた語る主体。あるいは言語とモノの調整役。こうした役割には限界や特権も含まれており、誰にでも共有できるものではない。

スローテクノロジーのデザインとは、省察、経年変化、物質性を重視し、時間性を考慮してデザインすることなのだ。

知識の生成は状況的、身体的かつ部分的である。つまり、知識は基礎や普遍性をもたずに構造化され、さらには状況的で多元的であるという点で、ノマド的な性質をもつこととなる。

ある特定のノマド的実践に関する知識は、そのノマド的実践の内に状況づけられている。これはいかなるノマド的実践の外側にも、独立したデザインの知識など存在しえないことを意味する。一方で、各実践は他の実践と重なり合い、既知の内容を集団的に共有することができる。私はこの特徴を〈状況に置かれて知っていくこと(situated knowing)〉と表現する。

つまり、異なるパラダイムの理論を評価し比較する際に共通するものがほとんどないということである。これは、科学の発展は先行理論の累積的な構築であり、理論は進歩して科学的真理に近づくというこれまでの考え方を拒絶するものだ。

テクノロジーの利用範囲が職場を超えて家庭や日常生活に広がったことによる、幅広い利用文脈、アプリケーション、環境を指している。

プログラムはデザインへの信念や理想の集合体であり、デザインに関する特定の世界観を凝縮し前景化するものである。このようにして、プログラムは、あるプログラムにおけるデザイナーの行動や思考を導くことができる。

プログラムは、パラダイムという学問的な停滞から一歩脱却したものだ。

批判的技術実践は、この省察的な探究がすべての概念や手法をリスクにさらすという事実を受け入れる。また、このリスクを合理性への脅威ではなく、物事をよりよく行うための可能性として前向きに捉える。

概念や方法を「実践」として枠づけることにより、議論は「知のあり方」に関する究極の参照点としての学問の影からさらに離れていく。

アグレは認知科学に「唯心論」という生成的メタファーを見出した。これは、人間の心が情報処理装置のように機能し、刺激や知覚のデータを組み合わせることで外部の反応や行動を推論するというものである。当時の認知科学の理論的・方法論的な定式化は、明らかに「内部情報処理としての精神」というメタファーで構成されていた。アグレの大きな関心事は、このメタファーが支配的な現状から、将来の軌道がどう変化するかということだった。これに関して彼は、省察的探究のモードのなかで、「相互作用論」という生成的メタファーをもち出して対抗した。つまり、人間と環境は相互関与、参加、相互形成していると反論したのである(Agre 1997,53)°

根底にある生成的メタファーを診断し、解体することができる批判的技術実践が必要なのである。批判的技術実践は、周縁に追いやられているものからはじめて、新しい技術、方法、優先順位を開発するという困難な作業を行うことで、代替となる生成的メタファーを提供する方法である。その実践が関心を周縁から中心へと移行することを可能にするのである。

生成的メタファーは実践を基礎的な知識から切り離す。それ自体の出現は歴史的なものであり、その意味で、構造をもたない学問的な実践を継承している。このメタファーは知識と方法が実践のなかに内包されていると主張し、その実践は危険にさらされている一方で抜本的な変化にもひらかれている。生成的メタファーは共在し、学問的な境界を越えて機能し、その過程で与えられた実践の言説を拡張し、ノマド的であるといえる。

生成的メタファーは基礎との関係から解放されているので、共存することができるのだ。基礎の代わりに、それらは中心と周縁のダイナミクスとして構造化され、主要なメタファーの排他的な力が実践の周縁に代替物を作り出す。そして、批判的な介入によって、周縁部にあるものが最終的には中心となりうるのである。

プログラムや生成的メタファーの多重性が批判から基礎へ、もしくは、周縁から中心へという固定的で階層的な関係になっていることだ。こうした固定された関係性は、ある意味で十分に関係的ではない。最後に、パラダイム、プログラム、生成的メタファーは暗黙のうちに、人間の主体性を人間中心的に保持したり、特権化したりしている。一方、ポストヒューマニズムでは認識論的に非人間のエージェント的貢献を前提としており、これが広がりをもたらしている。

単に「考える」ことはできず、常に何かを考えている。単に「見る」ことはできず、常に何かを見ている。単に「感じる」ことはできず、常に何かを感じている。人間は経験する存在として、世界を構成する実在に向かわずにはいられない。逆に言えば、「世界そのもの」について語ることはあまり意味がない。人間が現実との関係からしか理解できないように、現実も関係性からしか理解できない。定義上、「世界そのもの」にはアクセスできない。なぜなら、それを把握しようとする試みはすべて、特定の理解と遭遇の方法によって明らかにされるがゆえ、世界そのものが「私たちにとっての世界」になってしまうのだ。
(Verbeek 2008,388-389)

「デザイナー」は単に「デザインしている」のではなく、〈何か〉をデザインしている。同様に、私たちは「デザインそれ自体」を捉えることはできず、デザインは「何かをデザインしているデザイナー」との関係のなかで捉えなければならないのだ。ここでその「何か」は、身体化され、状況に置かれ、偶発的なさまざまな方法で構成されている。つまり、共同構成されるものとしてのデザイナーは、関係的であり、かつ多重的である。

ハラウェイは、超越的または客観的な知識のモデルに対して、「状況に置かれた知」(Haraway 1988)と呼ばれる局所的に知っていくことへの理解を提示することで反論している。これは、身体化された客観性として説明される。この客観性は知る主体が、すでに知られているものや他の知る主体と比べて、特定の局所的な位置である状況に置かれていることを明らかにすることによって説明責任を果たすのだ。
 そして、この局所的な身体化、つまり知る主体の視点は、創造された知識と、その知識がどのように創造されたかに反映される。状況に置かれた知は、知識の限界を避けることができない。あらゆる場合において、知る主体は差異、偶発性、身体性、不完全性の結果であり、同時に、これらの状況に置かれた知は、集合的に知識の「ラディカルな多重性」を形成しているのである(Haraway 1988,579)°

つまり知る主体は、現実のいかなる解釈も部分的で不完全であるという責任を負い、この限界を認めることで信頼を得ることが求められるのだ。状況に置かれた知において、客観性は知ることにおける中立性から引き出されるものではない。

主体性のもつ地形的性質は、多次元的で、要するに、見え方そのものである。知るという過程の途上にある抜け目ない自己は、あらゆる外見からして部分的であり、決して完成しておらず、なおかつ全体であり、ただそこに存在しており、オリジナルであるーーそして、常に構築途上であり、不完全に縫い合わされていて、であればこそ、他者であることをことさらに主張することもなく、他者と接合したり、ともに見たりすることが可能なのである。ここに、客観性が保証される。すなわち、科学の知を得ようとする者が求めているのは、アイデンティティが有するような主体としての位置ではなく、客観性が有するような主体としての位置、つまり部分的関係性である。ジェンダー、人種、国家、階級といった存在によって形作られた特権化された(隷属的な)各種の位置のすべてに、同時に「存在していたり」、そうした位置のいずれかに全面的に「存在していたり」する方法はない。
(Haraway 1988,586;ハラウェイ2017、3691370)

私は知っているということを主張する誰かがいる、という仮定は解体される。状況に置かれた知では、知っていると主張することは特権的な立場ではなく、知る方法こそが特権的である。

位置づけられた合理性とは、解決や「他の人であることを主張する」ことではなく、知っていることを集合的に主張することなのである。

普遍性の主張を放棄することは、一般化可能な知識というアイデアを放棄することでもある。

無垢な目は、型にはまった見方や既存の慣習の繰り返しを避けようとする目なのではないかという問いも差し向けられている。

単に「感じる」「考える」のではなく、何かに向かって考え、感じ、行動するのである。世界を不可避に志向したり経験したりすることによって、私たちの世界は構成される。人間が現実との関係で理解されるように、現実もまた人間との関係においてのみ理解される。つまり、客観的な世界や「それ自体の世界」は、私たちにはアクセスできない。なぜなら、私たちが世界を把握しようとするあらゆる試みが、世界を「私たちのための世界」にし、その世界は私たちが世界を理解し経験する特定の方法によって明らかにされるからである(Verbeck 2005)。

人間とテクノロジーの絡まり合いは、人間とテクノロジーが互いになるものに影響を与え合う、相互の生成変化なのである。

テクノロジーは構成的なものであり、それが私たちとこの世界を作っている。皮肉なことに、このことは、この世界が破壊され、「事物的存在」になったとき、はじめて「客観的に存在する」かたちで明らかになるのだ(Verbeck 2005)。

ある意味、モノはデザインされた形のテクノロジーの〈ゲシュタルト〉と見ることができる。なぜなら、テクノロジーは生のまま、あるいは単一の形で私たちにあらわれることはほとんどなく、デザインされてあらわれるからだ。

モノは世界のなかでの人間のあり方を非中立的に、あるいは形作る存在となる。それと関連して、技術的媒介の志向性は共同構成的であり、モノが人間の「主体性」とその世界の「客体性」の形成に寄与する。

〈アーティファクト〉が人間の使用の産物であるのに対して、〈モノ〉は人間のための道具であることをはるかに超えている。モノが人間の行動や認識を形成し、人間とモノが一緒になって構成されるという点で、モノは人間と同等の存在なのだ。職場にある新しいコンピューティングシステムは、モノとして、そのシステムを使う人を根本的に違う人間にし、環境や人間の活動の本質を変えるような変容をもたらすと考えられている。
 アーティファクトとは、概念的に言えば、複数の形態や時間的状態を指す柔軟性の高いものである。

モノは人間に関する主張を具現化するものではない。むしろ、人間とのさまざまな関係において、モノは志向性から発生する。このように、モノは象徴的ではなく、パフォーマティブである。

モノの違いは質的なものであり、その違いはモノをデザインする際の前提条件をどれだけ強調するかで測られる。

アーティファクトである「廃棄物」は、もはや人間が使うことはないため、視界から消え去り、意識されなくなる。これに対してモノは、そのライフサイクルを通じてさまざまな集合体に組み込まれながらも、常に視界に留まっているという点で重要である。しかし同様に重要なのは、人間、非人間、モノの広範で継続的な相互接続性とアッサンブラージュゆえに、モノをデザインすることが継続的な効果と帰結をもたらすということである。

モノは人間で〈ある〉ことと同等なものである。モノは人間を形作り、その逆もまた然りで、モノは人間という動物がどのような存在になるかに影響を与える。一方、人間は、ある瞬間にモノがどのような存在になるかについて影響を与える。このように、モノはヒト – モノ、モノ – ヒトを超えては還元不可能なものである。

すなわち、人間がモノを形作るように、モノも人間を形作るということである。では、一体誰が、何がコントロールしているのだろうか。

つまり、モノは固定されておらず、高度に解釈的で、複数安定的であり、また究極的には政治的なものである。

「人間」を特権化していたヒエラルキー関係からのポスト人間中心的な移行には、主体の側からの疎外と根本的な再配置が必要である。これを達成するための最良の方法は、主体の支配的な視覚からの異化、または批判的な距離の戦略である。非同一化とは、創造的な代替案への道を切りひらくために、慣れ親しんだ思考や表現の習慣を失うことを意味する。(Braidoti 2013, 88-89)

重要なのは、安定した存在の間に関係的性質や相対性を作り出すのではなく、モノの既存の関係的性質を強調すなことであると認識することである。

関係性の存在論のために、規範には驚くほどもろい側面がある。このことは、価値を再構成することによって、あるいはモノを通して同調圧力を生み出すことを明示的に目指すことによって、あるいは排除を目的としたデザインによって、モノが中心的な役割を果たす規範的な価値を行使し維持する政治的な現実、あるいは支配の政治を生み出す。しかし、それほど単純ではない。モノの関係的性質と非中立性は、傾くボウルが示唆するように、固定された立場に対抗する緊張感や不安定さを与えることもある。

複数安定性はモノの意味が、経験的、状況的、身体的な位置のさまざまな解釈の問題であることを明確に説明している。

技術は、私たちの選択や行動を決定づけるものであると同時に、私たちの操作や解釈にひらかれているものでもあるということを、私たちはどのように理解すればよいのだろうか。技術は、私たちが自らの目的のためにデザインし使用するものであると同時に、私たちに影響を与え、制限し、導き、傾倒させ、制御するものでもある。《Rosenberger and Verbeek 2015, 25)

私たちの視点は、この世界に身体化されて巻き込まれ、視点に左右され、失敗の対象であり、知ることに限界があり、偏りがちであり、特権に目がくらんでいると仮定することができる。そのため、モノのあるゆる意味の差異は、政治的なものとみなすことができる。モノは、必ずしも明らかではない方法で、規範的な価値に向かって常に形作られたり、固定されたりする余地がある。

「モノは、私たちが自らの目的のためにデザインし使用するものであると同時に、それ自体が目的や意図を超えて私たちを形作り、制限し、制御するものでもあるということを、どのように理解すればよいのだろうか」という問いである(Rosenberger and Verbeek 2015)。

モノが完全に私たちにあらわれることがないことも明らかである。いわばモノは私たちの知覚から、部分的に消え去ったり、撤退したりする。

つまり、人間の生気やエージェント機能は、互いに矛盾したり協調したりして働いている多くの生気のうちのひとつなのだ。

モノはその関係性、結果、効果においてモノ自身が変化するのに伴って、私たちを変化させるのである。

モノのデザイナーとは、モノを生み出す上で、人間と非人間にまたがるエージェント機能を引き合わせたものなのだ。

〈オブジェクト〉のデザインはモノのデザインとは対照的に、美や永続性、反消費主義といった、理想的な人間の価値を顕在化させるプロダクトやコンセアチュアルなデザインを生み出すことを意味していた(Wilson 2018)。

経歴書の概念は、モノのデザイナーがその世界にデザインするもの、置き去りにしてきたものに対し、説明資任を果たすことを可能にする。さらに言うならばこの概念は、あるデザイナーの価値を判断する場合に、そのデザイナーがデザインすることで影響を与えた生活世界と切り離されないようにすることを保証しようとしている。経歴書は過去の行動に基礎づけられた現在的なものだが、人間的な側面が消滅したあとでさえ、常に形成の過程にある。

デジタル物質は志向性をもつ。すなわちデジタル物質は、操作可能なもの、かつプログラム可能なものとして自らを世界に差し向けているのだ。

インターフェース要素であった「ポーク」がフェイスブック全体のインターフェースへと移行したように、構成要素同士が合成しあい役割を交換しながら、より「自給」的に、無関係なものを減じるように凝縮されていく(liadis 2015)。

人間の「相互関与性と相互依存性」は、生存がどういう意味なのかを規定する。それゆえ、たとえ世界に目的を見出すこと、あるいは「世界を道具として捉える」ことが人間の生存にとって不可避であり、必要なことなのだとベネットが主張したとしても、この意味での生存とはポストヒューマン的主体(Bennett 2010,77)としての生存のことである。いわばここでの生存は拡張的で関係的、つまり〈ともに生存する(survival-with)〉ことを意味しているのである。

「共通世界」とは、〈この世にただひとつの〉世界のことではない。むしろそれは何らかの共通項をもつ〈とある〉世界のことであり、そのことはまた、他の共通性、あるいは〈多元世界(pluriverses))のまわりに形成された、いくつもの異なる世界があることを指し示している(Latour 2004b,246)。モノをデザインするある所与の協議体は、そのような多元世界のうちのひとつである。この漸進的構成とは、解決のことではない。解決は実現不可能な、非政治的世界である。

問題は消費資本主義である。

政治的閉塞感とは、規範を特権化したり宣言したりすることで、政治を隠したり閉塞させたりすることである。ラトゥールならこのことを、競合する関心や問題の集合を示す〈関心の問題〉を用いて、モノが〈関心の問題〉であるにもかかわらず、〈事実の問題〉として主張されていると説明するだろう(Latour 2004)。

公共とは、ある課題に取り組もうとする願望によって結ばれた、創造、組織化、維持を通じて進化する集団のことである(Le Dantec 2016)。

モノは常に論争、討論、交渉にひらかれている。協議体はデザインしない。むしろ、協議体はデザインを拡張させる関心の問題のアリーナを集成し、この拡張と包摂によってモノのデザイナーが形成され、特徴づけられるのである。

協議体は集いとしてのキッチンのようなもので、そこには調理や食事の前にあらゆるものが集められている。従来の参加型デザインが〈使用前の使用(use-bcfore-usc)〉、参加型デザインのインフラストラクチャリングが〈デザイン以後のデザイン(design-afer-desig)〉だとするならば、協議体は〈モノ前のモノ (things-before-things)〉だといえる。

接近するとは、同じ水平面を共有していると知るための位置、視点、場所をもつことであり、それはいわば、知るべき問題の隣に横たわるようなものである。この、位置や視点に基づいて知ることは、ハラウェイの〈状況に置かれた知〉と似ている。〈状況に置かれた知〉は客観性を再定式化しようとするもので、客観性は身体化された部分的なものだとし、また何を知り、何を理解するのかを決められる知る主体に説明責任を負わせようとする(Haraway 1988)。

つまりこの知る方法は、たった一度分析すれば終わりなのではなく、協議体が変化し、さまさまな部分的な見解があらわれるのにしたがい、絶え間なく積極的に省察することなのだ。いずれの場合であれ、この現実主義は相対主義に屈することなく、ポストヒューマンの関係性を維持する中道的なものである。そしてさらに言えば、この現実主義的な態度で理解された協議体は集いとして、つまりは「モノとしてこのように理解されるとき、構築でもあり現実でもある」(Puig dela Bellacasa 2017, 33)。

デザイナーが非人間的な物質とともにデザインすることは、そのデザイナーが非人間をデザインプロセスに参加させることを意味する。また、物質が何を語り何をするのかは、固定されたものではなく、現象学的な意味において動的である。物質、デザイナー、そしてその会話は、それらがともに状況づけられている様子、つまり「デザインシチュエーション」(Schon 1984)に従って変化する。

語る主体の役割は、真剣に受け止められるが深刻な疑義にさらされ続けるため、それ自体が政治的なものなのである。

我々は仲介的な状態を表現するために、翻訳、裏切、改竄、発明、合成、転置といった概念を用いることができる。要するに、代弁者という概念は、問題になっている言論の透明性を指し示すのではない。その概念は、完全な疑義(私は代弁者かもしれないが、私が代表するそれらの名のもとにではなく、私自身の名のもとに語っている)から完全な信頼(私が語るとき、私の口を通して語っているのは、本当に私が代表しているそれらである)に至るまでの、”あらゆる状態”について指し示すのである。
(Latour 2004b, 64)

異なっているが同時進行するいくつもの実践は、そのそれぞれの実践がそれ自体を方向づけ、あるいは特定の〈何か〉のまわりに集い、デザインに関わる共有基盤や普遍的な知識なしにデザインを行う。

モノとは、ある経験におけるあらゆる特殊性と差異を含む、ある特定の瞬間の世界に対する身体化された関係のことだと考えることができる。このように、モノ(あるいはモノの意味)は、身体化された状況のなかで経験されたときにのみ意味があるという点で、遂行的(performative)なものである。その結果、モノは身体化されたさまざまな状況に応じて、さまざまな意味をもつことになる。

軌道とは力の方向性であり、〈目的性〉を示唆しない動きや進行のことである。軌道は、アッサンブラージュにまたがる行為や出来事の結集を記述する。効力は力の創造的な側面であり、変化や新しいモノが生み出される、軌道上の点を指し示すものだと言える。エージェント機能は分散したものとして捉えることが重要だ。そうすることで、主体を根本的な原因として捉えずに、効力を行為というよりも効果として捉えることができる。さらに、生気やエージェンシーといった非人間的な質は、ある人間の一生を超えて継続する影響をもちえるような非人間的な時間軸や規模へと、モノを開放するものである。

わからないままでいる方法を発展させることに焦点を当てることが必要なのである。そしてそこに、未知である、あるいは部分的に知っているという位置から行動するという実践を育むための出発点がある。つまり私たちは、媒介された主体、責任=応答能力、そして拡大された枠組みの省察といった考えを参考にすることで、謙虚さ、一体性、共存、そして多様な関心へのケアといった理念に基づいて行動するための、物質 – 言説的な実践・方法の開発をはじめることができるのだ。
 モノをデザインすることにおけるわからなさ(not-knowing)は、モノそのものにも及ぶ。私はここまで、語る主体は自分自身が何をしているのかをわかっていない、ということについて議論してきたが、そこにはまた、語る主体の、彼らが代表して語っているモノに対するわからなさがある。非人間は人間ではないという単純な事実のために、多くの意味で、非人間たちは私たちにとってわかりえないものだ。だとすれば、私たちはいかに非人間を代表し、ともに参加することができるのだろうか?

ハラウェイ(2016)は、他種や非人間との近親関係を強調するなかで〈人間(humans)〉を再構成し、人間は堆肥にすることができ、次の生命を与える土、つまり〈腐葉士(humus)〉になるのだとした。

私はデザインを、流動的で絶え間なく移動し続け、それぞれが旅する地形にあわせて形を変える、多重的で交差しあうノマド的実践だと捉えた。単一の主張をもたず、基礎や境界をもたないため、デザインは拡張的なものになる。また、私はモノを、関係的で複数安定的で、それゆえ固定的な意味をもたないものだと説明した。モノは人間やアッサンプラージュと相互接続されている。モノは、エージェント機能、具体化、そして人間との関係と同等かそれ以上に非人間との関係性を含んだ、拡張的なものであった。

つまり、水平性は、ともにデザインするために求められる行為としての関係性と拡張性を体現するものなのである。この水平性は、自身を他の人間や非人間と並んで状況に置くことの重要性を語っている。そうすることで、土のなかでミミズとともにいるダーウィンのように、文字通りの意味で接点を拡張し、また、より大きな近接性を通じて、関係の多重性を高めることができるのだ。この比喩的な立場がつまり、モノをデザインするという文脈において、人間として可能な限り接触しながら、そして可能な限り非人間と並んで、ともにデザインすることなのである。
 寛容はリスクを伴う。水平性を引き受けることは、遠くからすべてを見渡せる垂直性という立場を手放し、謙虚になるリスクを引き受けることである。寛容であることはあまりに多くのものを包容することにつながり、その結果、ほとんど何も見定めることができないというリスクにつながるかもしれない。すべてを包容することは、何も包容しないことと紙一重なのだ。

つくり、つくられる人間以上の絡まり合い

上平崇仁

この現実の背後では、自然環境は人間によって利用されるために存在するとする人間中心主義(Anchropocentrism)や人間だけが例外的な特権を与えられているとする人間例外主義(human exceptionalism)と、“暗黙のうちに”結びついていることは否定できないだろう。デザインの力は、こうした不都合な現実を覆い隠す方法としても巧妙に機能してきた。皮肉なことであるが、人間は自分たち以外の存在を周辺化しつつ、周辺化したものに依存して生きている。21世紀に入り、私たちはこうしたジレンマに陥っている。この次元においては、人々のニーズに応える”広義の人間中心デザインを正当化し続けるのは難しくなる。

ゴール駆動型の枠組みではなく、内部と外部が絡み合う網の目を改めて意識するために、デザインを終わりのない関係論として捉え直すべきだと強調するのである。

そうしたどこまでも広がる全体的な網の目を読み解くことは、複雑さや不確実さを伴う。必然的に認知的な負荷は高くなる。私たちは複雑なものごとを複雑なまま受け止め、保留される「わからなさ」のなかでどこまで耐えられるだろうか。この厄介さを受け止めるために、なんらかの術を見出さなくてはならない。

私たちは自分の意図をもってデザインするにもかかわらず、そのデザイン実践の内部で何が起きているかも実はよくわかっていなかったりもする(not-knowing)。人間デザイナーにとっての「デザイン」とは、こうした自身のコントロールの限界やわからなさを認識しながら、それでも〈ともにデザイン(designing-with)〉していこうとする、謙虚な歩みに他ならない。

2025年5月

『ポストヒューマニズムデザイン: 私たちはデザインしているのか?』ロン・ワッカリー/著、森一貴・水上 優・比嘉夏子/訳より引用。