一 精神自然科学の基礎の最近における諸変革
正確さ、すなわち、ここまでは古典概念が自然記述に有意義に適用できるという、その正確さがいわゆる不確定性関係によって制限されているということが明らかになる。この正確さの制限はまさに古典的諸概念に対する自由度を与えるものであり、しかもこの自由度は、ーーたとえば、粒子像と波動像のようなーーいろいろの直観像ーーこうした直観像に描かれてこそ一定の物理現象が出現できるーーを合理的に連関するために必要なのである。
しかしながら理論の進歩は、物理学の研究、およびそれとともに結局は技術もまた発展していく方向の少なからぬ部分を限定するであろう、ということである。
人は、自然を観察することにより、かつ実験を実施することによって経験内にもちこむことのできるあの客観的な、疑い得べかざる実在に直面した。この発見の当然の帰結は、人間の研究対象となった客観的実在において、一般を特殊から分離しようとする試みであった。
地球は全世界であるのではなくて世界のそれ自体閉じた小部分であるにすぎない、という発見によって、「世界の涯」なる概念の曖昧さを退け、そのかわりに地球の全表面の正確な地図をかくことができるようになった。
すなわち、各々が他の部分に対して多種多様な関係にあって、多くの他の部分を包みこんだり、他の部分によって包みこまれたりしてはいるにしても、それ自体で完結した統一を表わすような個々の部分からなっている。すでに完結した諸部分から新しく発見される部分とか、または、新しく建設される部分とかへの歩みには、存続しているものの単なる発展的継続によっては実現され得ないところの、知性的な行動が、いつでも、要求されるのである。
ニ 自然の物理学的説明の歴史について
現代自然科学を深く理解するには、そもそも、今日の研究が、人びとの数千年も昔の、自然の理解に関する努力の首尾一貫した継続であると、いかなる程度において、見なし得るかをしらべ、さらにこの努力における成功と失敗とを注意深く比較することが大切である。
人間による自然の観測は個々の知覚作用に密接な類似を示している。というのは、この知覚作用を、たとえばフィヒテと同じように、「われわれの自己制限」としてとらえることができるからである。すなわち、いかなる知覚作用においてもわれわれは、無限に豊富な可能性から特定のものを選び出し、よってもって将来への豊富な可能性をもまた制限するわけなのである。
精確化したことの結果として、世界における現象の移り変りを理解するためには、もっと多くの原素を容認して、その混合と離反とによってわれわれの経験における千態万様の出来事を説明するか、それとも、パルメニデーズが「存在」なる観念によって試みたように、「持続するもの」なる概念を経験からまったく引き離すか、のいずれかを行わなくてはならぬ、という紛糾した事態を起こすことになった。
かように早くも、外界の質的な多種多様性を量の変化、すなわち混合の割合の変化に帰着させる、という思想のための予備工作が行われたわけである。 知覚されるものの質的な相異は、原子の多様な形態、運動および配置によって解明されなくてはならぬのである。
幾何学は空間の属性なのである。
『自然科学的世界像』W.ハイゼンベルク/著、田村 松平/訳より抜粋し流用。