C 良心 美しきたましい、悪とその赦し
行為するものとしての良心
現実は一箇の存在する「場合」であって、行為とはその現実をたんに転換して、なされた現実へと替えることにすぎない。
良心にとっての実在はじぶん自身にかんする確信にほかならない
良心はじぶん自身に対して(自覚的に)みずからの真のありかたを、みずから自身にかんする直接的な確信にそくして有している。これは直接に具体的なしかたでじぶん自身を確信することであって、その確信こそが〔知としての良心にとっての〕実在である。
行為にさいしての良心に帰属する知について
現実は諸状況がおりなす一箇の絶対的数多性である。その多数的なありかたは、後方にさかのぼればそれぞれの状況を制約する諸条件に、側方にはその傍らにならぶものたちに、前方に向かってはその帰結のさまざまへと無限に分割され、かつひろがっている。
良心の自己確信とその恣意性について
良心が認識する内容であるならば、どのようなものであれ良心に対しては絶対的なものではない。良心とは絶対的な否定性として、いっさいの規定を無みするものであるからだ。良心とはじぶん自身にもとづいて規定する。
ことばとは精神の現存在であり、他者に対して存在する自己意識である
ことばとは、他者たちに対して存在する自己意識であって、自己意識は直接にそのような(他者たちに対して存在する)ものとして目のまえにあり、しかもこの自己意識として普遍的な自己意識なのである。
自己はみずからを聴きとり、同様にまた他者たちから聴きとられる。
良心が語るとき、内面の意図は廃棄されている
形式こそが自己であり、この自己はそのものとしてことばのなかで現実的なものとなって、みずからを真なるものとして言表する。自分はまさしくそのように言表することで、いっさいの自己を承認し、かくてすべての自己によって承認されるのである。
行為する良心と、その悪
じぶん自身にかんする確信こそが本質として、自体的なものに対抗している。自体的なものとはいいかえれば普遍的なものであるけれども、それはたんに契機として妥当しているにすぎないわけである。このように内的規定に対抗するかたちで登場するのが、したがって現に存在するものという境位、あるいは普遍的な意識なのである。
『精神現象学 下 』G ・W・F・ヘーゲル/著、熊野純彦/訳より抜粋し流用。
区別なき区別 »