B 物もしくは現実的なもの
〔知覚の規範としての物、物の実在的統一性、ものは必ずしも対象ではない。すべての与件相互の間の同一性としての、また与件とその意味との同一性としての実在的なもの〕
経験と呼ぶものは、あらゆる関係において現象が分節化の頂点に達した瞬間における、この現象と私との完全な共存である。
物には、それぞれの感覚的性質を他の諸性質に結びつける象徴作用がある。熱は物の一種の振動として経験に提示される。色は色で、いわば物がそれ自身の外に出ることであり、非常に熱い物が赤くなるのは、アプリオリに必然的である。
われわれは、新しい行動を了解するように、物を了解する。
一つの行動は、世界に接するある一定の仕方を描きだしている。これと同様に、もろもろの事物の間の相互作用において、それぞれの物は、外部とのあらゆる出会いの際にそれが遵守する一種のアプリオリによって、特徴づけられる。
物の分節結構はまさにわれわれの実存のそれであり、物に人間性をまとわせるまなざし、ないしは感覚的探査の、末端に位置するのだから、物は決して現実にはそれ自体においてあることはできないのだ。その限りにおいて、いかなる知覚も交信あるいは合体である。つまり外部の志向のわれわれによる継承もしくは成熟であり、あるいは逆にわれわれの知覚の諸能力の外観における実現であり、いわばわれわれの身体と物との交合である。ひとびとがこの点にもっと早くから気づかなかったのは、知覚世界の自覚が客観的思惟の先入主によって困難にされていたからである。客観的思惟は、主体と世界との統合を証拠だてるあらゆる現象を減殺し、即自としての客体と純粋意識としての主観という明晰な観念をそれに置き換えることを、いつも任務としている。したがって客観的思惟は、物と受肉した主体とを結びつける絆を断ち切り、われわれの世界の構成要素としては、感覚的諸性質しか残さないのである。この際、われわれがすでに描いたようなさまざまな現われ方は度外視される。そして資格的諸性質がとくに選ばれる。それというのも、視覚的諸性質が自律的であるかのように見え、直接身体に結びつくことが比較的少く、ある雰囲気のなかにわれわれを誘い入れるよりも、むしろわれわれに客体を提示するからである。しかし実は、すべての物はある環境の凝結であり、物の明白な知覚はいずれも、ある雰囲気とのあらかじめの交流に支えられて生きているのである。
知覚されるものは必ずしも、認識さるべきものとして私の前に現前する対象とは限らない。それは、実践的にのみ私に現前するところの「価値の統一」であることもあろう。
そして私の環境は「存在するかしないか、本来の性質を保つか変質するかが、私にとって実践的に問題になるようなすべてのもの」を含んでいるのである。
色彩が組織された光であるなら、それは調べの組合わせがその意味をもつように、一つの意味をもってはならないだろうか。
自然なままの知覚は科学ではない。それはおのれの向う事物を措定しはしない。それはそれらを観察するために遠ざけはしない。それはそれらと共に生きる。
知覚されるものの存在は、われわれの実存の全体がそれに向って方向づけられているところの、先述定的な存在なのである。
C 自然的世界
〔世界の実在性と未完成、世界は開いている。時間の核心としての世界〕
地平の総合は本質的に時間的なのである。
私は私の周囲に臨んでおり、そのかなたに広がっているあらゆる他の景観と共存している。そしてこれらのパースペクティヴのすべてがいっしょになって、単一の時間波を、つまり世界の一瞬をつくっている。
時間の核をなす世界は、共現在化されたものを現在的なものから分離すると同時に両者を組み合わせるところの、あの独特の運動によって初めて存立するのである。
対象と瞬間とのいわゆる充実性は、志向的存在の不完全性の前でのみ現われるのである。
客観的思惟の理想は、時間性によって基礎づけられると同時にこぼれる。言葉の全き意味における世界は、一個の対象ではない。
物と世界は、私もしくは私に類似した諸主体によって生きられたものとしてのみ、実存する。なぜならそれらは、われわれのパースペクティヴの連鎖だからである。しかもそれらはすべてのパースペクティヴを超越する。それというのも、この連鎖が時間的で未完成だからである。ちょうど不在の景観が私の視野のかなたでおのれを生き続け、私の過去が私の現在の手前でかつておのれを生きたように、世界は私の外でみずからおのれを生きているかのように、私には見える。
D 幻覚の分析による反証
〔幻覚的な物と知覚された物〕
私が私の対話者の聞く声や見る影像を幻覚の類と見なすのは、私が同じようなものを私の視覚的ないし聴覚的世界のなかに見出さないからである。それゆえ、私は、単に私個人が見る光景を構成するだけではなくて、私にとっていや他人にとってすら唯一可能な光景であるところの諸現象の一個のシステムを、聴覚と、なかんずく視覚によって把握していると自覚しているわけである。そして、これこそ現実と呼ばれるものなのである。知覚された世界は、ただ単に私の世界であるばかりではない。他人の諸行動が現われるのを見るのも、この世界においてであり、他人の行動もまたこれをめざしているのである。世界は単に私の意識の相関者であるばかりではなく、私が出会いうるすべての意識の相関者でもある。
幻覚的現象は、世界の一部をなしてはいない。すなわち、それは近づきうるものではない。
幻覚は世界のなかにあるのではなくて、世界の「手前」にある。
いかなる幻覚も、まず第一に、自己の身体の幻覚である。
世界はかようなものであるという信念が私を襲ったのだ。
〔幻覚的な物と知覚された物のいずれも認識より深い機能から生れる。「原初的臆見」〕
可能性と蓋然性とは、先だつ誤謬の経験を前提としており、疑いの状況に対応するものなのである。
いまだ真理は存在せずして現実があり、必然性はなくて事実性があるというところでは、誤謬はありえないであろう。これに対応して、われわれは知覚的意識に対して完全な自己所有と、いかなる錯覚をも排除するような内在性とを、拒まねばならない。
反省への私の信頼は、結局、時間性の事実と世界の事実とを、いっさいの錯覚と錯覚からの目覚めとの不変の枠として引き受けることに帰着する。私は、時間と世界への内属においてしか、つまり両義性においてしか、私を知らないのである。
『知覚の現象学』M.メルロ=ポンティ/著、中島盛夫/訳より抜粋し流用。