Erwin Wurm|HUMAN FORM
エルヴィン・ヴルムへのインタビュー
インタビュアー:中川千恵子
皮膚は、外部から私たちを守ってくれます。衣服や家も同様です。守る層が違うだけで、外界から私たちを守ってくれる。我々は、自らの着ている服や自分の暮らす家と非常に強い繋がりを持っています。それらを守ってくれると同時に、特定の価値観や社会的ステータスを提示します。私たちが何者で、どんな人になりたいと願うのかが、複層的にあらわになるのです。
ある意味、私たちは食べたり、筋力をつけようとしたり、ボリュームを減らそうとすることで、常に彫刻に取り組んでいるのです。
新しい作品を始めるときは、たいてい彫刻にまつわる考えからスタートし、それを形にしていきます。ただし時間が経つにつれて、素材や作品そのものが形をなしていく過程に従うことを学びます。
私が作品を作るのではなく、作品が私を導いてくれるのです。どこへ向かっているのかわからないときもあります。それは恐ろしく、素晴らしい体験です。自分自身の作品に驚かされるのですから。
エルヴィン・ヴルムーーその構想と構造をめぐって
アプローチを読み解く
アントニア・ヘルシェルマン
鑑賞者は自らの視覚的習慣を乗り越えることを求められ、古典的な彫刻や絵画の概念(20世紀初頭の前衛芸術も含まれる)を永遠に手放すよう促される。伝統的な要素と、これまで絵画・彫刻・建築と分けられていた古典芸術の枠組みを解体する姿勢を交差させ、新たな組み合わせを生み出すことは、初期からヴルムの芸術的関心の核心にあった。ヴルムは、新たな組み合わせを生み出すことは、初期からヴルムの芸術的関心の核心にあった。ヴルムは、新たな彫刻の概念を一見遊び心あふれるやり方で展開していくなかで、自身の知的自由を駆使して、めったに疑問視されることのない社会的規範、あるいは(自明とされてきた)重力や、空間の内外との関係、形の恒常性といった物理的条件を再検討しようとした。ペーター・ヴァィベルが指摘するように、ヴルムにとって空間を満たすすべてのものは「身体」とみなされている。
多数の弁証法的対置のなかで、現実と虚構、剛と柔、被覆と露出、さらには富と貧困、(過)多と(過)少、大と小、権力と無力といった対比をめぐる問いが出現する。それらの問いは、男性優位な価値観に基づく社会的地位の象徴を追求から、しばしば滑稽ですらある権力の誇示と、それらが内包するあらゆる不条理かつシュールな側面を暴き出して批判する。
焦点は、変化し続ける社会のなかで広く共有され、至るところに存在する欲求な願望、豊かさと欠乏にある。
時間と時点
ヴルムは、自作を通じて誰かを非難したいのではない。むしろ世界を別の視点から見ること、つまり既存の見方から離れ、新たな視界を開くことを提案しているのだ。
ポストモダンと呼ばれる時代が、概して西洋社会における過去・現在・未来との関係性を再考する契機となったように、美術界においても、とくに1980年代初頭以降、「時間」という複雑な要素との向き合い方に大きな変化が見られるようになった。
テキストによる指示そのものが精神的、抽象的な「文章彫刻」
概念はどこまで物体の代替となり得るのか?
こうした思考の過程で、写真やドローイングはどのように彫刻となり得るのか?
彫刻家は可視性をどこまで削ぎ落とせるのか?
身体の断片化という主題もまた、新たな彫刻的経験を追求するなかで重要なテーマとなり得る。
ヴルムは早くから、異なる時代における人物像の姿勢のあり方に関心を寄せており、実際にさまざまなものか見受けられる。
彼は、私たちの集合的な視覚の記録や、脳に刻み込まれている形の定型を巧みに利用し、姿勢や輪郭に既視感を与える。だがそれは錯覚にすぎない。
「この世には、個人の数より仕草のほうが少ないことは明白である。
つまり、仕草のほうが個人そのものより個性的なのだ。
われわれは仕草の道具であり、操り人形であり、化身である」。
『不滅』ミラン・クンデラ
ヴルムが問いかけるもうひとつの問いは、「体積を取り除いたとき、彫刻には何が残るのか」というものだ。
空間と時間の動態や、体積と色彩に対するヴルムの芸術的アプローチ、拡張と縮減のあいだを揺れ動く姿勢、サイズと比率、現実と抽象のあいだで繰り広げられる戯れは、呼吸すること一吸って吐くこと一を思わせる。それは自然界において見られる体積の増減、つまり時間の経過、腐食、気温の変化、天候、水、風といった要因によってもたらされる変容である。人間と同様に、それらの変容もまた、つかんでは手放すという永続的な営みを反映しているのだ。
本文の初出は、2024-2025年にアルベルティーナ・モダンで開催された個展の際の展覧会図録。