mitsuhiro yamagiwa

言語の基礎的な形態は間接話法、聞き伝え、自分が経験したのではないことについての言葉を他の誰かに伝播することであり、あらゆる単文は主節が省略された複文だ。

4-4 指令語をパスワードに書き換える

言語はおのれの変数と連続的変奏の状態に導くことで、「限界」へと向かう超越的行使へと至る。

〈について〉の言葉はわれわれを形象のもとに超コード化する指令語であり、連続的変奏は身体に帰属する非物体的変形が身体〈の〉変形であり続けるための条件だ。死を逃走に、指令語をパスワードに内在的に書き換えること。

39「あらゆる言語は内在的な連続的変奏の状態にある。共時性でも連続体でもなく、言語の可変的で連続的な状態としての非共時性、プラグマティズムに固有の強度と価値を与える半音階言語学が必要だ」。

「見かけ上の外面性から本質的であるような「内面性の核」に向かうのではなく、言葉と物を、それら自体を構成する外在性に還すために、内面性という錯覚を斥けなければならない。

4-5 概念ーー哲学の構築主義(2)

「観照」はプラトン的なイデアにもとづく客観的認識、「反省」はデカルト的なコギトにもとづく主観的認識、「コミュニケーション」はフッサール的な他者にもとづく間主観的認識に対応する。これらはいずれも、哲学がそれをおのれの特権とすることで、自身を〈普遍〉と取り違える「錯覚」だ。しかし観照したり反省したりコミュニケーションしたりするために、哲学はいささかも必要ではない。

内包は指示の対象にすぎず、命題の内部 – 指示を構成しており、外延は外部 – 指示を構成している。われわれは指示の条件に到達したからといって指示というものの外に出るということはないのであって、われわれは依然として外延性のなかに留まっている。

概念はその共立性、つまり内部 – 共立性と外部 – 共立性によって定義されるが、ただしこの概念は指示をもたず、むしろ自己指示的なものだ。概念は創造されると同時に自分自身を定立し、かつ自分自身の対象を定立する。構築主義〔としての哲学〕は相対的なものと絶対的なものを結びつける。

顔はあらかじめ眼差しをもっているのでもないし、顔が現れる平面としての鏡があらかじめ準備されているのでもない。それらはいずれも「誰かがあちらから私を見ている/そこに私が映っている」というかたちであらかじめ隔てられたものの「相互的な提示」を前提としており、むしろ顔貌性はそのような隔たり=奥行き、「他者という位置」の発生条件である。

突飛な話に思えるが、それはぼおっとして「我を忘れて」いるときにふと何かが目について「我に返る」ような、きわめて日常的なことでもある。 

 たとえばあなたが電車に乗ってぼおっと景色を眺めているとする、流れ去っていく景色にあなたの存在が張り付いていき、あなたは他者なき世界で、ひとつの「気分」としか言いようのないものにすべてが満たされていく。そのときふと、「きぬた歯科」という文字と医師の顔が看板に飛び込んでくる。それが他者だ。さっきまで世界は私と溶け合うひとつの気分で満たされていたのに、その看板は虫歯やインプラントがありうる世界を表現する。つまり、「……がある」だけに満たされていた世界に、「そこにないもの」の可能性が穿たれる。〈我を忘れ- 他者が消える〉ことから、〈他者が現れ – 我に返る〉ことへ。

それ〔=他者〕は、ひとがひとつの世界から他の世界へ通過するpauseための条件をなす。他者は世界を通過させるものであり、「私」なるものはもはや、ひとつの過ぎ去った passé世界しか示していないのである。

「私」とは、他者が世界を通過させることで、過ぎ去ったもの=過去のなかに遡行的に置かれることで生まれるのであり、「私」の発生とはすなわち他者が表現する可能世界に対する〈遅れ〉あるいは〈隔たり〉の発生にほかならない。

他者は世界を通過させ、その過程において置き去られるものとして遡行的に「私」を生み出す。

この他者という位置は誰かが私にとって、誰かに対して私が対象=他者として現れるときに、あるいは私にとっての奥行きが可能な他者にとっての長さとして現れるときにその実現を下支えしている。

出来事は避けようもなくひとつの物の状態のなかに巻き込まれるたびごとに現働化ないし実現されるが、概念を物の状態から解放するために出来事がそこから抽出されるたびに、われわれは出来事を反 – 実現する contre-effectue。

『非美学』福尾匠/著