mitsuhiro yamagiwa

5-6 概念的人物ーー哲学の構築主義(3)

31 「他人に何かを信じさせようとする場合、私は、聞いてもらえたり、見てもらえたり、感じてもらえる何かをしなければならないのが普通である。しかし、私自身に何かを信じさせようとする場合、声に出して何かを言ったり何かを書いたりする必要はまったくない」(Hintikka,“Cogito, Ergo Sun : Inference or Performance?,)

人間主体はすでに非人間的なものを巻き込む知覚と情動のシステムとしての内在に侵っており、その見かけ上の自律性は非本質的な結果=効果の側に割り当てられる。

「経験論は出来事と他者しか知らない。それはまた、概念の偉大な創始者でもある。経験論の力は、ひとつのハピトゥスとして、ひとつの習慣として、あくまで内在的な領野における習慣として、「私は……」と言う習慣として主体を定義する瞬間から発動する」。内発的なものとしてではなく、たんなる習慣として「私」と言うこと。それは指令語としての習慣への服従ではなく、指令語をパスワードに書き換えるための条件である。

第6章 非美学

6-2 東浩紀の線と面、あるいは言葉と物

15

われわれが言語について見たように社会的秩序はそもそも等確率的なものというよりむしろ蓋然性の偏りとしての冗長性の総体としても捉えることができ、現代の統治技術はむしろ統計的な偏差を拠り所にしている。

すなわち、言葉(シニフィアン)が物(エクリチュール)になって「しまう」という自動的で受動的な有限性においてひとはものを考えるのではなく、言葉は言葉であり物は物であるその酷薄な懸隔においてひとはものを考えるのだ。

6-3 非並行論ーーひとは身体が何をなしうるか知らないことも知らない

26 「身体はわれわれがそれについてもつ認識を超えており、同時に思考もまた、われわれがそれについてもつ意識を超えているということだ。(…)言い換えれば身体というモデルは、スピノザによればなんら延長〔属性〕に対して思惟〔属性〕をおとしめるものではない。はるかに重要なことは、それによって意識が思考に対してもつ価値が切り下げられることだ。ここに無意識が発見され、身体にある未知の部分とおなじくらい深い思考にある無意識の部分が発見されるのである」

つまり、言語/道具はなんらかの主体性のモデルにもとづいた内発的なものではなく、反対に、分散的な言語/道具のアレンジメントのほうが人間に内面らしきものを穿つのだ。アレンジメントは文字通り「疎」であり「外」である。

そしてこの「人間の条件」としての〈疎 – 外〉が、言葉と物の適合を切り裂き、その非並行から力を汲み出す端緒にもなる。人間形態主義を人間中心主義から分離することは、生物学的な自然からも人為的に仮構された「自然」からも疎外されたものとして人間の主体化を考えることである。

なぜなら疎 – 外とは内面性の、そして言葉と物の適合の後発性を他のタイプの地層に差し向けることなくーーたとえば〈動物になること〉を経由することなくーーどこまでも人間形態的な非 – 知のおいて捉えることを可能にするからだ。フーコーーとドゥルーズが「外の思考」と呼んだのは、そうした疎 – 外の力能ではないだろうか。

6-4 ドゥルーズとフーコーの言葉と物(2)

あらためて確認すると、◎カントにおいて「自発性」とは構想力、悟性、理性といった構築的な能力を形容し、「受容性」とはつねに外部入力に依存する感性を形容する語であった。

27

「言表分析にはもうひとつ特徴がある。それは、言表を、外在性のシステマティックな形態においてあつかうということである。通常、語られたことに関する歴史的記述は、内部と外部との対立によって全面的に貫かれている。そしてその記述は、外在性から(…)内面性の本質的な核に立ち戻るという任務によって、全面的に制御されている。こうして、創設的主体という核が解き放たれることになる。(…)ここにはつねに、歴史的かつ超越論的なテーマが充当されている。言表分析が試みるのは、こうしたテーマから自らを解放することだ。それは、言表をその純粋な分散へと還すためである。」

あらゆる発話を支える非文法的、非論理学的な「何か」があり、それによって可能になった発話が言表と呼ばれる。

可視性とは、「対象や事物や感覚的性質」と同一視されない、見えるものと見えないものを同時に配置するある光学的なシステムである。

言表は物や物の状態を志向せず、もっぱら言語 – 存在と関わる。

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「言語において自己に話すのと、視覚において自己を見るのとは、まったく同じ世界である。」

すべては知である。そしてこれが無垢の体験が存在しない理由である。つまり、知より以前、知の下には何も存在しないのである。しかし知は、還元不可能なしかたで二重であり、話すことと見ること、言語と光である。

知のポジティビズムとは、言われたものと見られたものを、その共通の場を先取りすることなく、つねにさしあたり区別されたものとして取りあつかうことである。なぜならわれわれに与えられるのはそのつど言われたこと、そのつど見られたことだけであるからだ。だからこそ厳密に「知」と呼ばれるべきは見ること〈と〉話すことであって、話していることを見ることや、見ていることについて話すことではない。

話すことは知である。見ることは知である。しかし一方と他方の関係はつねに非 – 知である。話していることを見ているのか見ていることを話しているのかわれわれはつねに知らず、同時に、知らないことも知らない。知っているのは、ときに話したり、ときに見たりしているということだけだ。知らないことも知らないからこそ話すこと、見ることができる。その意味で非 – 知は経験の条件である。

われわれは知らないことも知らずに非 – 知を塗りつぶしている。白痴とは無知の者を指すのではない。白痴が知らないものがあるとしたらそれは知を常識のもとへ包摂・馴化する術であり、彼らはおのれの知が非 – 知へと滑落していくごとに崖っぷちで体を強ばらせる。なぜか。その谷が彼らの体だからだ。

『非美学』福尾匠/著