はじめに
1 なにについて論じるつもりなのか
好むと好まざるとにかかわらず世界は向こうから押し寄せてくるものであり、それに対して無反応でいることは許されない。
さまざまな判断を下す私たちはなんらかの観点に立ってそうしている。
ときに私は今ここにいる私としてプライベートな判断を下すが、ときに私は今ここにいる私たちから離れて、客観的で、誰もが同意すべき判断を下す。
◉肝心なのは観点の有無ではなく、そのサイズである、客観的で普遍的な判断もあれば、主観的でローカルな判断もある。
さて、芸術批評とはざっくり芸術作品に対する一連の判断のことだが、ここにはふたつの(私からするとどちらも)奇妙な伝統がある。
第一の伝統によれば、作品に対する解釈や評価は、ごく客観的な観点からなされるべきである。ある絵画に対する「美しい」という判断は、「私にとって心地よい」といった個人的で主観的な判断であってはならず、誰にとってもつねにそうだという絶対的で普遍的な判断であってはならず、誰にとってもつねにそうだという絶対的で普遍的な判断でなければならない。
第二の伝統は、そのような理想に対してシニカルな態度を取る。結局のところ、「私にとって」という修飾から逃れることは不可能である。
私は本書を通して、どちらの伝統も間違っていることを示すつもりだ。
批評家が下す評価や判断は、多くの場合、極端に大きな観点からなされるのでも、極端に小さな観点からなされるのでもない。中間的な観点からなされるのだ。
◉さまざまな芸術のカテゴリーが次々に生まれることは、さまざまな芸術作品が次々に生まれることにも劣らず、芸術実践の創造性、拡張性、そして自由を示すものだ。
2 どう論じるつもりなのか
たったひとりで思索し、好き勝手なことを述べているだけの人物は、もはや現代的な意味での哲学者ではない。
3 なにを主張するつもりなのか
私たちは、芸術作品を制作したり鑑賞することにもまして、カテゴライズすることに夢中なのだ。
芸術鑑賞およびそのガイドである芸術批評は、ルールとしてのジャンルをめぐる社会的相互作用である。
4 なにを論じないのか
芸術哲学者は芸術作品についての理論から芸術実践ないし芸術種の理論へと関心を移すべきなのだ。
ドミニク・マカイヴァー・ロペス
美術史はほとんどつねに、伝統と革新のせめぎあいとして展開されたきた。
狭義の芸術こそ、カテゴリーの社会的ダイナミクスがもっともよく観察される場所なのだ。
第一章 批評とは鑑賞のガイドである
1 批評とは何か
原稿料を目当てに筆を取る批評家もいれば、作品をだしに自分語りがしたいだけの批評家もいる。
批評という概念は、言うなれば、鑑賞という概念に寄生的なのだ。
2 鑑賞ガイドではない批評があるとする反論に応答する
鑑賞のガイドは(つねにではないにせよ)通常、命令や洗脳によってなされるのではなく、鑑賞の表明によってなされる。
3 批評ではない鑑賞ガイドがあるとする反論に応答する
制度的には批評として扱われていないアイテムのうちに、鑑賞ガイドという批評的側面があることはなんら不思議ではない。私はこのような、批評的なものを捉えようとしているのであり、批評として現に扱われていないものを再確認したいわけではない。
4 酷評も鑑賞ガイドなのか
作品を貶す類の批評もまた(実質的な意味での)鑑賞のガイドとして理解できる
COLUMN選択ガイドとしての批評観
選択ガイドをしているからといって、それらを批評とみなすのはおかしいということと、批評が単なる選択のガイドであるとすれば、それはこういったアルゴリズムと機能的には同じものになってしまう、ということだ。
第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない
2 素朴な主観主義に反し、鑑賞は単なる好き嫌いの問題ではない
◉おそらく、主観主義の魅力は、芸術鑑賞を主観的とみなすことのもっともらしさより、客観的とみなすことへの忌避感に由来している。
要するに、客観主義は抑圧的なので、主観主義のほうがマシなのだ。
3 ヒューム的説明
ーー鑑賞は好き嫌いの問題だが、鑑賞者については有能さが問えるとする見解
有能な批評家が、とりわけ共同的に好んでいることは、客観的に良い作品であると信じる指標となる。こうして、ヒューム的説明は主観制約と客観制約の両方を満たした、いいとこ取りの理論となっている。
4 ヒューム的説明の問題点
ーー理想的鑑賞者は一方で十分な権威を持たず、他方で過度な権威を持つ
・〈芸術鑑賞は主体的である〉とする主観主義は、極端なバージョンでは芸術をめぐる意見対立や教育を説明できず、穏当なバージョンでは批評に反対する結論まで持っていない。
・ヒューム的説明は、鑑賞の客観的側面を有能な鑑賞者に訴えて担保する。しかし、過大評価のなにが悪いのか説明できず、画一的な世界がベストであるという帰結を伴うなどの問題点がある。
第三章 鑑賞とは卓越性の測定である
1 鑑賞の客観的側面から出発する
つまり、それは主観的側面と客観的側面のいいとこ取りを目指しつつも、主観的側面から出発しているのだ。この方針は近代美学にとりわけ顕著であり、今日私たちが芸術鑑賞を考える上でも大きな制約となっているが、つねに受け入れられてきたわけではない。
個人という単位やその経験を重視するのは、きわめて近代的な発想である。
さて、鑑賞の主観的側面から出発し、その後で客観制約を満たすよう修正するというアプローチが困難ならば、反対のアプローチはどうか。すなわち、①鑑賞の客観的側面から出発し、②その後で主観制約を満たすように修正するのだ。
芸術鑑賞とは作品が特定の芸術カテゴリーの目的を満たしているかどうか、客観的に測定することである。
2 アリストテレス的説明
ーー鑑賞は好き嫌いの問題ではなく、特定の目的に照らした測定だとする見解
鑑賞が目的を特定したり、手段の適切さを測定する理性的な活動であるとすれば、批評もまたそれをガイドする理性的な活動だということになる。
批評は信念をガイドするだけであり、好き嫌いをガイドするわけではない。
個々の鑑賞者の好き嫌いは、作品それ自体の価値としては無関係なのだ。
主観制約は美的なものをめぐる制約であり、芸術的なものをめぐる制約ではないとされる。
3 主観制約を満たさないことは美的なものと芸術的なものの区別によって正当化される
美的なものと芸術的なものを区別する
美しさという性質は、関心の拡張とともに美的(aesthetic)な性質のひとつに過ぎないとして脱特権化されていくが、こうして多様化した美的なものは、引き続き芸術と結びつけられていた。すなわち、芸術とは美的なものであり、美的なものといえば芸術なのだ。
芸術的価値や芸術鑑賞もまた、快楽と強固に結び付けられてきた。快楽を与えるもの=美しいもの=芸術、というわけだ。
美的なものは芸術作品ばかりではないのだ。とりわけ芸術ではないが美的なものの典型例として思いつくのは自然である。
風景は、風景画を見るような目で見られるからこそ、芸術に似た美しさを持つというわけだ。
主観制約は、あくまで美的なものをめぐる制約なのだ。
芸術鑑賞は個人的な利害や対象の有用性を脇に置いた、無関心的な態度でなされる。
美的価値と一致しないとしたら、芸術的価値とは一体なんなのか。明らかなのは、それらについての多元的な理解が必要であるということだ。
アリストテレス的説明において芸術鑑賞とは測定であり、測定されるのは卓越性としての芸術的価値である。鑑賞は、目的に照らした手段の適切さを判断するごくありふれた理性的営みであるため、批評によるガイドが意味をなす。この説明が主観制約を満たさないことは、それが美的なものとは区別される芸術的なものを対象としていることから正当化される。
4 アリストテレス的説明に残された課題ーー観点選択の問題
COLUMN ムーア的説明?
良い芸術作品は世界の側で決まっているが、その芸術的価値は私たちが美的快楽でもって反応することを呼びかけている。
芸術的価値の理解と、良い作品を好むことは不可分なのである。
ゴロディスキーによれば、真の傑作は適切な美的快楽を通して、そのなかで把握されることになるが、それが抱かれてしかるべき「適切な」美的快楽なのか、単なる錯覚(過大評価)なのか、判定するための手段がないのではないか。
第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する
2 反文脈主義から文脈主義への移行
作品のうちに見て取ったり聞いて取ることのできない事実、具体的には、作品がいつどのような時代状況のもとで、誰によってどんな意図で作られたのかといった事実は、鑑賞にとってノイズでしかない。この見解を、反文脈主義と呼ぶことにしよう。
反文脈主義はしばしば形式主義(formalism)と呼ばれている。
これは作品の形式がしばしば「形式」と呼ばれてきたことに由来する。
文脈主義の台頭
◉どのような線引きを与えても、そこから逸脱するような作品が次々に出現してくるのが芸術実践であるため、確定的な定義など不可能だとされる。しかし、こうして不可能だとされた試みは、多くの場合、作品のうちに見て取ったり聞いて取れるような内的特徴に訴えた定義であり、より複雑な仕方で作品と文脈が取り結ぶ関係的性質に訴えた定義ではない。つまり、芸術作品はそれ単体で芸術作品であるというよりも、より広範な社会的・文化的文脈との関係性において芸術作品であるかもしれないのだ。
〈芸術作品はそのうちに知覚できるものだけで判断すべきだ〉という見解はきわめてミスリードである。(Walton, 1970)
3 美的判断はカテゴライズによって左右される
心理学的テーゼ
美的性質はどのように知覚されるのか。
フランク・シブリーはふたつの特徴づけを与えている。第一に、美的知覚は非美的側面の知覚に依存している。
第二に、しかし、基礎となる非美的性質と基礎づられる美的性質の関係は条件支配的なものではない。つまり、しかじかの非美的性質群があれば必ずこの美的性質がある、というような決まったルールはありえない。
ウォルトンはまず、芸術のカテゴリーを、カテゴリー所属に寄与する特徴の観点から導入している。芸術のカテゴリーは、それぞれ異なる標準的/可変的/反標準的特徴の組み合わせを持つ。
例えば、絵画カテゴリーにとって平面であることは標準的であり、描かれているものは可変的であり、立体物が突き出ていたり、動き回ることは反標準的である。
ウォンルトンが正しければ、◉私たちは思っているよりも多くのケースにおいて、無意識的にカテゴリーを参照していると言えそうだ。カテゴライズは、知識を動員して意識的になされるのではなく、経験を通した刷り込みであることをウォルトンは強調している。
規範的テーゼ
本書では、この特権的なカテゴリーのことを規範的カテゴリー(略してNカテゴリー)と呼ぶつもりだ。
芸術作品は、さまざまな観点から知覚/判断されうるが、あらゆる観点が等価なわけではない。作品にとってふさわしい、特権的な観点があるのだ。
まったく恣意的なカテゴライズのもとで下された判断を、作品についての真なる判断とすることは認められないのだ。
《ゲルニカ》は、(部分的には)ピカソが絵画を意図して制作したという事実のおかげで、暴力的だという美的性質を持つことになる。
認識論的テーゼ
◉肝心なのは知覚と独立した知識ではなく、ほかならぬ知覚能力の訓練だとされる。
◉人間の知覚システムがなにを表象するかは、その人が持っている信念ないし知識によって左右される。知覚と知識は独立なのではなく、後者から前者への影響があるというわけだ。
とはいえ、私たちはしばしば、芸術作品がどのカテゴリーにおいて正しく知覚されるかに関与的な美術史的情報を利用することなく、あるいは得ようとすらせず、作品を知覚し判断している。
美的判断の形成において美術史的な知識が直接的に果たす役割を、ウォルトンは慎重に排除しているのだ。
まとめとして、ウォルトンは美的判断がしばしばカテゴリー依存であること、作品にふさわしいNカテゴリーが文脈的事実によって決定されることを論じつつも、反文脈主義者によるひとつのコミットメントを尊重している。
すなわち、結局のところ美的性質は頭で考えて結論されるものではなく、知覚されるものなのである。
美的判断は知識を動員した推論ではなく、学習を経た知覚だけに基づいて下される。
「芸術のカテゴリー」は、知覚的な美的判断が芸術に対する判断として中心的なモードとみなされていた時代の産物である。
ウォルトンが尊重していた反文脈主義者の直観(重要なのは、どう見え、どう聞こえるかだけだ」)も、美的なものに関する直観であり、芸術的なものに関する直観ではないと言える。
4 美的判断から芸術批評論へと拡張する
美的判断の形成におけるカテゴリーの役割
まず、カテゴリーが直接的に関与的であるケースと、間接的に関与的であるケースが区別される。
「芸術のカテゴリー」は、このように枝分かれするさまざまなモードのうち、間接的で、理想として、非目的論的にカテゴリーが役割を果たす特定のモードだけを取り上げているのだ。すなわち、標準的/可変的/反標準的という重み漬けを与えるモードである。判断者は芸術カテゴリーを把握することで特徴への重みづけを把握し、知覚されている作品がどの点で範例通りであり、どの点でかけ離れているのかを意識する。
標準的/可変的/反標準的特徴の重みづけを通して美的判断を左右することは、さまざまあるモードのひとつにすぎないのだ。
美的判断の正当化におけるカテゴリーの役割
批評家は、ただ判断を形成するだけでなく、正当化された判断を提示しなければならないのだ。このような場面において、カテゴリーはもっと意識的な役割を果たす。
「芸術のカテゴリー」の焦点は一貫して美的判断の形成ステップなのだ。
美的判断は知覚を通して無媒介になされるのであり、なんらかの原理に頼って推論することはできないはずだ。反対に、美的判断が証拠や理由をもとにして推論的に形成できないのだとすれば、批評家は自身の判断を理由によってサポートすることもできない。
非推論性テーゼを超えて
第一に、美的判断は証拠や推論によっては正当化されえないが、非推論的な仕方で正当化されうるかもしれない。
したがって、◉批評家は説明を通して、聴き手にも同じ知覚的経験を生じさせることによってのみ、ある判断が正当化された判断であることを聞き手として共有しうる。
結局のところ、批評家は証拠のようなものを提示して判断を直接サポートしているように思われる。
美的判断が重要な点において(具体的にはその正当な形成過程において)非推論的・無媒介的であることは、美的性質と非美的性質の形成も正当化の構造を認めることと両立可能なのだ。
演繹的推論によって美的判断を形成・正当化できないことは、別のタイプの推論によってそれができる可能性を排除しないし、推論に役立つ一般原理は例外を許容する類の原理なのかもしれない。したがって、美的判断にはそれをサポート・正当化・擁護する理由があるという考えを手放す必要はない。
ここで関心を向けられてしかるべきなのは、なにが美的性質と非美的性質の間にある正当化構造を実現しているのかという問題だ。
芸術批評におけるカテゴリーの役割
カテゴリーは私たちの美的判断を左右するばかりではない。繰り返すように、芸術的なものはもはや美的なものとは同一視できない。
美的判断というのは今日の芸術鑑賞がなす判断の一種にすぎないのだ。
美的判断はともかく、芸術批評は理由づけられた合理的活動でありうるのだ。
作品にふさわしいカテゴリーは、文脈的事実を含む一連の考慮事項によって決定される。
第五章 カテゴライズは単なる分類ではない
1 ふさわしいカテゴリーと属するカテゴリー
多くの論者はNカテゴリーと単なる分類上のカテゴリーを混同している。
規範的カテゴリー Nカテゴリー
分類的カテゴリー Cカテゴリー
すなわち、芸術作品は属さないカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるかもしれないのだ。
2 芸術作品は属するカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるとは限らない
知覚的に判別可能なカテゴリー
セザンヌ風絵画に属するには、対応する見た目を持つことが必要かつ十分条件であり、文脈は関係しない。
したがって、ガイドラインはなにか別の目的において利用されガイドラインなのだと理解する他ない。
部分説とひとつの懸念
論証は背理法による。もし、(CカテゴリーではないNカテゴリーはない)という仮説が正しければ、私たちは革新的な作品が持つ奇妙さに関してジレンマに立たされる。これを回避する最善の方法は、仮説を否定し、CカテゴリーではないNカテゴリーがあると認めることだ。
3 芸術作品は属さないカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるかもしれないーー奇妙さからの論証
奇妙さの必要条件?
美的なものと非美的なものの線引きはややこしい問題だが、これらの性質の間には明確な類似性がある。
革新的な作品を旧来のカテゴリーにおいて鑑賞する
ケージは明らかに、古典音楽に慣れた聴衆に対し《4分33秒》がショッキングなものとして現れるよう意図していた。そこで期待されているのは、旧来の知覚の仕方である。
4 純粋な認知主義との決別
カテゴライズは単なる分類ではなく、それ以上のなにかである。批評家が作品とカテゴリーを紐付けるとき、そこで行われている行為は必ずしも分類ではない。
これは◉カテゴライズの実践が多かれ少なかれ創造的であり、プラグマティックであることを示唆している点で重要なのである。どのカテゴリーにおいて作品を鑑賞するべきかという探求が、分類上の事実確認によって終わるようなものではないからこそ、そこにはトライアンドエラーの余地がある。鑑賞の客観的側面を重視するアリストテレス的説明によって、これは悪いニュースである。なぜなら、作品の目的ないしそのもとで作品を鑑賞ずべきカテゴリーは、世界側で勝手に決まっているわけではないからだ。よって、「作品それ自体の目的」に訴えても、鑑賞の客観性を直ちに担保することはできない。
私の信じるところでは、ここに芸術実践と非芸術実践の顕著な非対称性がある。アリストテレス的説明は、自然物を対象とする場合には、その評価の客観性をうまく担保することができる。
◉ある作品がある芸術カテゴリーに属するという事実は、はるかに偶然的であり、基礎において脆弱な事実である。それは、世界側の実在に沿った線引きではなく、私たちの関心に沿って設けられた人工的な線引きのうちに、特定の対象を位置づけているにすぎない。
◉対象にふさわしい観点が無時間的に決まっており、それさえ参照すれば客観的に適切な鑑賞ができるというのは、こと芸術作品に関しては当てはまらない。
必要なのは、カテゴライズ実践の偶然性や時間的展開を捉えられるような理論である。
・作品をそのもとで鑑賞するのにふさわしい規範的カテゴリーは、一部の論者に反し、作品が属する分類的カテゴリーとはなんの関係もない。前者を後者の部分とみなすと、革新的な作品の奇妙さをめぐってジレンマに陥る。
・一般的な教訓として、芸術作品を鑑賞するのにふさわしい観点を探すこと、それを正しく分類することは、別々の事業である。
第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである
1 ジャンルとなにか
ひとつのカテゴリーが複数のメタカテゴリーをまたぐことに不思議はない、
アートワールドにさまざまなジャンルが存在することは、そこにさまざまなルールが存在することに等しい(逆に、ルールが存在することはジャンルが存在することに等しい)。
ジャンルとは鑑賞に際し、こうしろああしろと私たちを導く一連のルールなのだ。
2 ジャンルとは作品を分類する諸概念であるとする見解
ジャンルについての分類説
常識が示唆するところでは、ジャンルは作品を分類するための諸概念である。
ジャンルはどのようなタイプの特徴を追跡するのか
絵画はふつう、ジャンルではなくメディウムというメタカテゴリーの典型例だとされる。
ジャンルカテゴリーが追跡するタイプの特徴の候補としては、表象的性質と情動喚起の機能が有望だと考えられそうだ。
分類説の問題点
非美的性質と美的性質、機能的性質を表象的性質、表象的性質と美的性質など、作品の持つ性質はタイプをまたぎつつ共起する。
要するに、ジャンルかつジャンルのみが追跡するタイプの特徴は存在しないのだ。
ジャンル理論が据えるべきふたつの側面
テクニカルに言えば、分類は記述的であり規範的ではない。
ジャンルとは関連するアイテムや人々の相互作用からなる伝統である。
私の考えでは、各ジャンルを個別化するのは異なる出力を持つ異なるタイプのルールである。
3 ジャンルとは鑑賞を統制するルールであるとする見解
芸術鑑賞におけるジャンルの役割
ジャンルは美的評価に限って役割りを果たすものではない。それは、美的プロファイルを包括したより広い概念である。
ジャンルは芸術の評価に加え、解釈をも統制する。
私たちは提示されたテキストから、なんらかの内容を想像しなければならないが、このような想像は既存のフィクション制度によって統制される。
私たちは作品に特定の仕方で注目したり、場面を想像したり、キャラクターに共感したり、作品をもとに歴史的知識を形成したりするが、これらの行為もまた、私たちがそのもとで作品を鑑賞するジャンルによって左右される。
ジャンルは批評的理由づけの背景となる
作品にしかじかの特徴があることは、単に私の反応の原因なのではなく、重要な意味において私の反応を適切なものにしている。
ジャンルに関する事実は、ある性質がある鑑賞的反応の理由となることの、高次の理由として機能する。
ルールをセットアップする
事実間には基礎づけの関係性とは別に、基礎づけのための原理の基礎をめぐるアンカリング(anchoring)の関係性がある。
社会的基盤を持たない単なるルール群はジャンルではないか、ごく潜在的な仕方でのジャンルでしかない。
ジャンルの社会的基盤
では、ジャンルのルールをセットアップする社会的事実、ジャンルの社会的基盤とは厳密に言って何なのか。その候補となる説明として、人々の集合的信念(あるいは少なくとも共有された信念)に訴える説明と、彼らのふるまいのパターンに訴える説明がある。
まとめると、ジャンルとは社会集団の信念やふるまいによって確立される、鑑賞ルールの束である。
4 作品はジャンルへと分類されるのではなく、ジャンルのもとにフレーミングされる
分類とフレーミング
個々の鑑賞者によるジャンル帰属は、本人を含む共同体の成員たちが従うべきルールを暗に表示している。
「作品を特定の種に位置づけることは、同時に、その作品にいかなるタイプの批評が適しているのかを示すことになる」
このように理解すれば、ジャンル帰属にまつわる意見対立はルールの押しつけ合いとして理解できる。
ここにあるのは、分類の実践とは多かれ少なかれ独立した、フレーミングの実践なのである。
なにゆえジャンルを鑑賞ルールとして捉えるべきなのか
形式や様式が、一連の標準的特徴と結びついた分類概念でるあるからこそ、個別作品は特徴を持つことによって形式や様式を持つことができる。
ジャンルが統制的なルールであるとしたら、それは個別作品が持つのではなく、そのもとに位置づけられる、あるいはそれを適用されるものであるからだ。これらの非対称性は、標準的に見て、私たちが形式や様式のようにはジャンルを分類概念として運用しているわけではないことを物語っている。
ジャンルがフレーミングの機能を果たし、形式や様式が分類の機能を果たすという分業
結局のところジャンルもまた分類のための概念であるとすれば、それは様式や形式といった別の分類的概念たちとどう異なるのか。
構成的なルールは統制的なルールへと還元される
表面的には分類ルールなるものが存在し、運用されているが、その正体は鑑賞ルールなのである。
分類ルールを鑑賞ルールへと還元する
ルールとしてのジャンルは、対応する共同体における人々の集団的信念やふるまいを通してセットアップされている。
個々の鑑賞は特定のルールを表示し、それに従うことを表明・提案することができる(フレーミング)
COLUMN 2
「無意識の条件づけ」
エグルストンの展示がしばしば無理解な反応を生じさせたのは、展示作品がカラーだっただけではなく平凡だったからだ。
第七章 ふさわしいジャンルとは制度である
1 ふさわしいジャンルはなにによって決まるのか
芸術作品への鑑賞的反応は、単に個人的なのではなく、(しばしば)ジャンルという公共的なものに関与している。ジャンルとは一連の鑑賞ルールの束であり、特定の集団が持つ信念やふるまいを基盤として、特定の共同体へとセットアップされている。
鑑賞のガイドである批評は、そのようなネットワークに明示的かつ能動的に働きかける営みとして理解できる。
その手の専門家が作品の正しい分類を教えてくれるとしても、作品をどのような観点から鑑賞するのが適切かまでは明らかにならないのだ。
2 ふさわしいジャンルは作者の意図によって決定されるという見解
ふさわしいジャンルについての意図主義
作品にふさわしいジャンルはたったひとつの考慮事項によって決定されるのではなく、複数の考慮事項のバランスによって決定されるのだ。
意味論的意図は[…]意味を決定するわけではない。しかし、一般的に、カテゴリー的意図はあるテキストが根本的なレベルにおいてどう概念化されるべきか、どうアプローチされるべきかを決定するのであり、それゆえ間接的に、テキストが結局はなにを述べなにを表現しているかに影響を及ぼすのである。
意味論的意図の役割は否定するがカテゴリー的意図の役割は認めるというもの
あるやり方で作品を扱うことが適切かどうかは、作者の意図次第だと認識している鑑賞者は少なからずいる。
意図主義の主な問題点
そもそも解釈についての反意図主義たちは、意味論的意図に一意的な権威を認めるのはやりすぎだという認識から反意図主義に向かっていたはずだ。
ときに、芸術作品は作者が意図しえないジャンルのもとで鑑賞・批評される。
鑑賞者、批評家、キューレーター、配給会社は必ずしも作者の指定したルールに則って作品にアプローチしているのではなく、ときに連想を駆使して駆使してルールと転用し、ときには自らルールを作り出している。
いくつかのさらなる問題点
芸術家の意図を超えて創造的なフレーミングを試みることは、それはそれとして芸術家の個性や創造性に対する誠実な反応であり、道徳的に配慮していると言えるのではないか。
3 ふさわしいジャンルは制度的に決定されるという見解
均衡したルールとしての制度
芸術鑑賞は、個別の鑑賞者と個別の作品が取り結ぶ私的な関わりなのではなく、ほかの鑑賞者集団をも巻き込む公的な性格を持っている。
私たちの社会にはさまざまな制度が組み込まれているが、そもそも制度とはなんなのか。
制度とは、ある集団が受け入れられており、構成員のふるまいを統率しガイドするルールのことである。
別の説明によれば、制度とはある集団におけるふるまいの収束状態、すなわち均衡のことである。
鑑賞の最適化という課題
結局のところ、たいていの作品は経験されるために作られるし、鑑賞者は作品を通して価値ある経験を得ようとしている、と言っても歪曲にはあたらないだろう。
他人の反応や、他人からの提案に対してセンシティブでないような提案などないのだ。
単に利己的にふるまうことも、単に他人の判断に追随することも、私たちを幸福にしてはくれないのだ。
アダム・スミスと共感に基づく道徳論
スミスによれば、人間は利己的だが、同時に他者の選択や感情にセンシティブであり、自らの選択からどう評価されるかにもセンシティブである。
人々の相互作用を実現しているのは、人間の持つ共感の能力である。共感の能力があるからこそ私たちは他者の心的状態を複製でき、他者の選好や可能な選択を自らの選択の考慮基準とすることができるのだ。
私たちはデフォルトのやり方として、自らの推論をほかのプレイヤーにも投影している。
私たちは相互に提案・説得・共感し合うなかで、作品に最適な鑑賞方法を探っているのだ。
ふさわしいジャンルの説明
プレイヤーたちは、やがてレディメイドというまったく新しいジャンルを創造するに至った。そこには、例えば、視覚的な凡庸さを挑発的でウィットに富んだものとみなすよう指示するルールが含まれる。
現在定着するジャンルも、その歴史の始まりは、新ジャンルを要請する先駆的な作品があったことは想像に難くない。
ふさわしいジャンルの偶然性
現在「正しい」とされているジャンル選択や、そのもとでなされている解釈や評価も、本質的には偶然の産物である。
◉ひたすら我が道を行き、逸脱的な観点を採用する鑑賞者を待ち受けているのは、しっくこなさの感覚と孤独だけである。
ふさわしいジャンルの改定可能性
制度はたとえ均衡したルールなのだとしても、外的ショックに対して脆弱である。
◉ほとんどの鑑賞者が保守的であり、レディメイドのような試みを面白がっていない共同体において、影響力のある批評家が個別のレディメイド作品を擁護する批評文を発表したとしよう。ほかの実践参与者たちにとって、その批評はあるフレーミングの顕著な事例として現れる。そこでは、視覚的に凡庸であることがポジティブに価値づけられ、それがいかに挑発的であるかが語られ、作品に先立つ伝統や、展望が示される。このような情報提供は、鑑賞者たちの選考を著しく変化させうる。たったひとつの批評が制度を直ちに改定することはないにせよ、それは現在の均衡点と、転換点の距離を縮める役割を果たす。
批評家に限らず、このような仕方で仕方で人々の選考に働きかけ、転換点を移動させ、均衡シフトを促そうとしている主体がアートワールドには数多く存在する。
複数のふさわしいジャンルの共存、作者の役割
◉作品にふさわしいジャンルは、それに従うことが鑑賞の最適化に照らして利益的であるという意味においてふさわしい。このふさわしさは、本質的に偶然の産物であり、改定の可能性に開かれている。ジャンル選択や、そのもとでなされる鑑賞・批評の実践は固定的なものではなく、ダイナミックに変化し続ける創造的なものなのだ。」
4 いいとこ取りとしての制度主義
理論を捕捉するーーマテンの鑑賞理論
「正しい」鑑賞の正しさとは、客観的かつ無時間的に決まっている正しさではなく、集団的なトラインアドエラーを経て発見される、暫定的なふさわしさにすぎない。
マテンの鑑賞論
鑑賞者の快楽という主観的な側面から出発したとしても、快楽の追求が集団的で社会的な課題のななのだと述べることで、到達された鑑賞方法に客観性(少なくとも間主観性)を担保することができるのだ。理論的鑑賞者というテクニカルな項目ではなく、人間の社会性に訴えて説明するというわけだ。
第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある
1 批評の意義とはなにか
なぜ黙って愛するかわりに批評しようとするのか
私たちには、作品を黙って愛するかわりにとやかく語ったり、他人の語りに耳を傾ける理由があるのだ。
「批評実践の意義とはなにか」という問いには、「批評実践は私たちにとっていかなる仕方で有益なのか」という問いに答えるなかで答えるべきである。
ガイドブックとしての批評
一言で言えば、その意義は正しさに気づかせることではなく、視野を広げることにある。
さまざまな観点からの批評を書いたり読んでりすることで、私たちは判断の柔軟性を養うことができる。
2 芸術実践をゲーム実践になぞらえる
芸術鑑賞とゲームプレイ
肝心なのは、作品に注意を向けたり、考えたり、感情を抱くプロセスのうちに成立する、価値ある関与である。
芸術作品には、正しい評価・解釈を求めて奮闘する以外の遊び方もあるはずだ。
重要なのは、芸術鑑賞にはさまざまな目標や動機があり、ルールに従う側面もあればルール逸脱的な側面もあると認識することである。
批評家は、与えられた作品の鑑賞を最適化するひとつの道筋を提示するが、それは実践としてのひとつのジャンルのもとでの鑑賞をデザインするようなものである。
ゲームとしての芸術鑑賞は、ときに芸術家であり批評家でもある個人によっても、ときに別々の芸術家と批評家のコラボレーションによってデザインされるのだ。
3 芸術鑑賞の価値をゲームプレイの価値になぞらえる
ゲームプレイが養う柔軟性
ゲームはルールでガチガチに固められており、一見すると自由や自律性を妨げると言われそうなものだが、実はルールでガチガチだからこそ自由や自律性を促進するのだ。
芸術鑑賞が養う柔軟性
芸術鑑賞は判断力のヨガである。
交友関係や仕事上の失敗はしばしば大きなリスクであり、気まぐれに新たな観点からものを見てみるというわけにはいかない、一方、芸術鑑賞ではこれが許されるし、それが与える学習はおおむね枠づけられ、体系だっているものだ。
ある種の芸術作品を鑑賞することで、私たちは特定の観点に立ち、そのもとで世界を眺める練習ができる。
以上の議論は、〈芸術鑑賞によって視野が広がる〉という広く認識されている(そしていくらか陳腐ですらある)考えを形式的に捉え直したものである。これをもう一歩押し進めた先に、批評の意義が見つかるだろう。
4 芸術批評の価値をゲームデザインの価値になぞらえる
芸術批評が養うさらなる柔軟性
本当に革新的な作品に直面したとき、私たちに必要なのはまったく新しい観点であり、それをもたらすためのラディカルな柔軟性である。
批評は観点主義者になるための練習である。
主観主義
評価や解釈は個々人がどう考えるかの問題に過ぎず、それを超えてとやかく議論するのは不毛だとされる。こうして開き直るのは容易だが、主観主義だらけの世界が豊かな世界であるとは、私には到底思えない。
観点主義は、極端な主観主義の反対、すなわち極端な客観主義とも対立している。
観点主義者のような慎重さと粘り強さを持つことは、私の考えでは内在的に良いことである。複雑な世界には、単純さを押しつけたり開き直ったりするのではなく、柔軟に対応していくべきだ。
保守的な批評もまた、批評実践が全体として持つ意義に寄与する
批評家はときにひどく偏屈であり、保守的なものの見方をする。現在、制度として確立しているものの見方を追随するだけの批評を読んだところで、肝心な意味において視野が広がることはないのではないか。
映画として良さを体現した映画は、映画のように見えてはならないのだ(これは、カントが芸術一般について述べていたことを思い出させるだろう。
◉重要なのは、ひとつの作品に対して複数のものの見方があり、ときには矛盾しているかのようなふたつの判断がそれぞれ筋の通ったものとして擁護されうるという事実を、実感を持って把握することであり、それを通して一面的なものの見方を手放すことである。そのためには、さまざまな意見に触れなければならない。これもまた陳腐だが、非常にもっともらしい考えである。
芸術批評を書いたり読んだりすることは、さらにラディカルな仕方で判断の柔軟性を養う。ここに批評実践の意義がある。
ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」
ノエル・キャロル『批評についてーー芸術批評の哲学』
『芸術をカテゴライズすることについて 批評とジャンルの哲学』銭 清弘/著