序論 フランクフルト学派のアクチュアリティ
過ぎ去った出来事を、起こりえたかもしれなかった複数の可能性とともに絶えず追想し、沈黙した死者たちの声の残響を注意深く聴き取ろうとするなかで、いまある現状とは異なる社会のヴィジョンを醸成していくことーーベンヤミンのテクストにおいて、〈救済〉という理念のもとで一貫して追求されているのは、そのような歴史哲学的な問いであり、「抑圧された過去」を解放するための〈メーディウム〉について徹底的に思考することにほかならない。そして、かかる〈救済のメーディウム〉への志向は、芸術作品をめぐるアドルノの美学的省察のなかで、さらにはメディア公共圏の創出のためのクルーゲの理論と実践において、脈々と受け継がれていくのである。
「芸術が芸術となるためには、おのれとは異質なものを必要とする」という命題を掲げる。「おのれとは異質なもの」として、ここでアドルノがとくに重視するのが、不条理演劇に見られるような、芸術作品としての「おのれの意味喪失」という契機であるが、そこにはさらに、「キッチュ」な諸要素や、さらには映画メディアを構成する複製テクノロジーも必然的に含まれるだろう。ここで萌芽的なかたちで素描されているのは、キッチュやメディア・テクノロジーのような非芸術的な要素をも貪欲におのれのうちに包摂し、否定を介して自己拡大を遂げていくような開かれた芸術作品の姿であり、外界からの孤絶を貫くことで社会にたいする究極のアンチテーゼを表現する「投壜通信」としての芸術作品というモデルからの決定的な離脱が図られているといえる。
アドルノにとって芸術作品とは、「非同一的なものの痕跡」を感覚することを可能とする一種の(知覚)の媒体をなすものであって、そのうちには、テクノロジー・メディアとしての映画も包含される、と。
第Ⅰ部 救済の美学
第1章 「無声映画の革命的優位性」
ーー初期ベンヤミンにおける〈沈黙〉と〈音楽〉
もはや人間や言葉によって認識されることがない自然は、いまや分裂と抽象化によって堕落した人間の言葉のなかで「過剰命名」に晒される。そして、このような「言語の奴僕化」のなかで自然の哀しみは、最終的に「沈黙」というかたちをとる。
植物がざわめいているところにさえ、つねにひとつの嘆きが共鳴している。沈黙しているがゆえに自然は哀しむ。だが、この命題を反転させると、自然の本質のうちへとさらに深く導かれる。すなわち、自然の哀しみが自然を沈黙させたのだ。
この真なるものこそが、すべての美しい仮象のうちにカオスの遺産としてなおも延命しているもの、すなわち、偽りの、人を惑わす全体性をーー絶対的な全体性を、破壊するのである。[……]この中間休止において、調和とともにあらゆる表現も止んでしまって、いかなる芸術手段によっても表現しえない暴力に席を譲るのである。
〔変化していく〕言葉の純粋な感情的生というものが存在しており、そのなかで変化していく言葉は自然の音声から感情の純粋な音声へと浄化されていく。かかる言語とはおのれが変化していく循環のなかの通過段階のひとつにすぎず、哀悼劇はこの言葉において語るのである。
おのれの感情の純粋さのためにのみ言語という煉獄のなかに降りるのが自然であって、もしも自然に言語が授けられたとすれば、自然は嘆きはじめるだろうという古い格言には、哀悼劇の本質がすでに含まれている。
鋭敏な耳が哀しみに満ちた自然の嘆きを注意深く聴き取り、「音楽」として鳴り響かせることによって、意味をもった言語による自然への裏切りに端を発する不協和音のすべては、嘆き/響きの「無限の共鳴」のなかで分解=解消され、最終的に「救済」へともたらされるのである。
哀悼劇においても音声言語が発せられるはするものの、しかしそれはたちまち「意味」によって阻害されてしまう。そして、このような「感情の堰き止め」こそが、「哀しみ」の源泉にほかならない。
第2章 解体と再生の遊戯
ーーベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」について
無声映画は、人間の言語にたいして、それがもっとも馴染んでいる次元を断念するように強いることで、それとともに表現の次元で途轍もない濃縮化をおこなうことができた。このような可能性を誰よりも利用したのがチャップリンだった。
「芸術作品が技術的に複製可能となることは、芸術にたいする大衆の関係を変化させる。たとえばピカソのようなものにたいしてはきわめて後進的な関係であるのが、たとえばチャップリンのようなものをまえにすると、きわめて進歩的な関係へと反転するのである」。
ベンヤミンが引き合いに出すのは、映画館における「集団的受容」のなかで「個人の反応」が「表明されることによって、たがいにコントロールしあう」という相互媒介的な状況である。
ベンヤミンの認識のなかで、映画がもたらす「ショック」とは、近代社会に暮らす諸個人が日々体験しているような「生命の危機」と「人間の統覚器官の徹底的な変化」に対応するものであり、現実における圧倒的な感覚刺激のシミュラークルないしはリハーサルをなしている。
激しく行き交う群衆や路面電車に身体が連続的に晒されることから生じる緊張やショック、労働者が日々操作する機械装置がもつ、人間の知覚反応の限界を超える速度やエネルギーなど、機械文明は人々に「近代的ハイパー刺激」を絶えずもたらしてきた。それらにたいして、映画メディアは、たとえばショットの転換などの技法をつうじて、このような感覚刺激を人為的・疑似的に再現するのであり、それによって「人間の感覚器官に複雑なトレーニングを施す」ことができるのである。
ベンヤミンは、映画を鑑賞するという日常的な行為を、近代社会における強烈な外的刺数に慣れておくための知覚の訓練として位置づけているわけであるが、そこで観客大衆はさらに、ある特定の受容様態を「練習」によって習得するという課題が与えられている。すなわち「気散じ状態での受容」である。「気散じ状態での受容は、芸術のすべての分野においてますます顕著になってきており、統覚の深い変化の徴候となっているが、その格好の練習道具となるのが映画である。
ベンヤミンによれば、「ひとまとまりの大衆」は「大衆心理学の中で語られている感情的な契機に支配されている」。
大衆は、「階級意識」を備えた思考主体へと変貌を遂げるとともに、「反射反応」ではなく「集団的理性」に従うようになるのである。
ベンヤミンの議論において「第二の技術」とは、「自然を支配すること」を目指していた「第一の技術」に対して、「自然と人類の共同遊戯」を目標とするうな新たな現代的な技術をあらわしている。「第一の技術」が「できるだけ多くの人間を[……]没入する」というかたちで「人間を犠牲にすること」を前提としており、取り戻しえない「一回性」によって規定されるにたいして、「第二の技術」は、「遠隔操作の飛行機」に象徴されるように、「できるだけ少ない人間を没入する」ことを方針としており、「一度は数のうちならず」という原則のもとに「実験方法を倦むことなく多様化させる」ような反復可能性を特徴とする。
産業資本主義体制下において人間は、機械装置をもちいた単純労働を繰り返すことで、おのれの本来的なありようから引き離され、自己疎外されていくのだが、ここでは逆に、テクノロジーに徹底的に侵食され、一体化していくことが、革命のための前提条件として位置づけられている。まさにこのような弁証法的な反転のプログラムこそが、「人間の自己疎外」を「きわめて生産的なかたちで活用すること」の実質的な内容であり、そのプロセスをへることによって、プロレタリア大衆がシュルレアリスム論で言われる「技術において組織される肉体」へと生成変化することが可能となるのである。
おのれの身体と自然と技術のあいだでひたすら越境や変容の遊戯を繰り広げることができる世界。ベンヤミンが「遊戯空間」と呼ぶのは、まさにそのような「第二の技術」によって開示された「見通しえないほどに拡大した」新たな可能性の領野にほかならないのである。
映画において、主体と客体を隔てる「適切な距離」は消失し、主観的とも客観的ともつかないカメラの眼差しは、同時に被写体/鑑賞者/制御者である大衆自身の内部へと入り込んでいくのだ。
クローズアップのもとで空間が拡がり、スローモーションのもとで運動が拡がる。拡大撮影において問題になっているのは、「いずれにせよ」ぼんやりとは見えるものを単に明確にすることではなく、むしろ物質のまったく新しい構造を出現させることである[……]人間が意識を織り込んだ空間にかわって、無意識が織り込まれた空間が現出する。
視覚的無意識についてわれわれは、カメラをつうじて初めて経験するのであり、それは精神分析をつうじて衝動的な無意識についてはじめて知るのと同様である。
いうなれば映画は、環境・身体・意識という人間主体を構成する固有の要件のすべてを徹底的に解体するのである。
過去から現在へと不可逆的に流れる線条的な時間ではなく、かつてあったものが過ぎ去ることなく何度も反復的に回帰し、複数の過去が現在とダイナミックに交錯するような非クロノス的な時間の地平が、「第二の技術」として映画によって開示されるのだ。
「構成」とはすなわち、過去のうちに密かに漲る「現在時」の存在を鋭敏に感知したうえで、そのような「アクチュアルなもの」としての過去を現在において「引用する=召喚する」という行為であり、それによって過去が現在へと、現在が過去へとたがいに照応しあうかたちで回帰し、相互浸透するのである。
唯物論の歴史的記述にとっても、労働者階級による革命実践にとっても、歴史とはあくまで「構成の対象」であり、「均質で空虚な時間」の連続的かつ不可逆的な連鎖ではいことをベンヤミンは強調する。「構成」とはすなわち、複数の過去を「引用=召喚」し、特定の布置状況へと配置することであり、それは映画におけるモンタージュの作業に近接している
「歴史的唯物論にとって重要なのは、危険の瞬間において歴史的主体に思いがけず立ち現れるような過去のイメージをとどめていくことなのだ」。つまり、◉「現在時が充填された過去」は、一瞬閃いてはたちまち消え去るような「イメージ」として不意に到来するようなものなのである。「歴史の概念について」のなかで一貫して要請されているのは、「均質で空虚な時間」の連続という偽りの歴史表象を、過ぎ去った時間を現在へと召喚するなかで批判的に打ち砕き、歴史の進行に「メシア的な停止」を命じることによって、そこに穿たれた空隙ーー〈中間休止〉ーーから、「過去の真のイメージ」が〈出来事〉として刹那的に生起するその瞬間を逃すことなく確実に捉えることにほからない。
過去はある秘められた索引をともなっており、それによって過去は救済へと向かうよう指示されている。かつての人々のまわりに漂っていた空気が、われわれ自身のまわりにもそよいでいるのではないだろうか?われわれが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまは沈黙した声のこだまが混じってはいないだろうか?
『パサージュ論』
「当該の空間で潜在的に起こったかもしれないことを、同時的に知覚」することであり、かつて起こりえたはずの過去という、実現しないままに終わった可能性の痕跡を「救済のイメージ」として知覚することであるといえるだろう。それはすなわち、かつて未来への豊かな萌芽だったものが、まったく実を結ばないままに過去のものとなって死滅していくなかで、「ある秘められた索引」というかたちで過去のうちに潜伏している、死産に終わった過去形の未来を追想することにほかならない。
すでに見たように、映画をつうじて大衆は、スクリーンに映し出された映像を集団的に鑑賞し、反応を相互にコントロールしあうことで、主体/客体、自己/他者、身体/事物、自然/技術、現実/表象の対立を超えた「イメージ空間」において、革命の主体としての〈集団的身体〉を形成していく。そこで受容されるイメージとは、何よりもまず、「自分自身が複製された姿」であるわけだが、それは労働者として働く現代の大衆の姿をそのままリアリズム的に表象することに尽きるわけではない。むしろそこには、「隷属させられた祖先のイメージ」や、「かつての人々のまわりに漂っていた空気」、「いまは沈黙した声のこだま」など、現在では完全に抑圧・忘却された過去のわれわれのイメージも含まれているのであり、いうなれば「無意識が織り込まれた空間」ともに形成しているのだ。
そして、〈いま・ここ〉という軛から解放された過去のイメージの数々を「召喚=引用」し、触覚的に受容し、集団的知覚によって取り込むことをつうじて、過去と現在と未来のあいだ、願望と現実のあいだに、「現在時」が充填されたアクチュアルな関係を取り結ぶことが可能となるのである。
資本家とファシストは、たんにおのれの既得権益を受動的に防御しょうとするだけではない。むしろ彼らは、複製技術時代においてはじめて生まれた大衆の欲求を、みずからの支配体制の維持のために巧みに活用するのであり、それによって大衆をおのれの反革命的な勢力圏のなかで欺瞞的に充足させようとする。
すなわちファシズムは、みずから複製されたいという現代の大衆の正当な要求を悪用し、「所有関係を変革する」という革命的な「権利」は剥奪したままに、「おのれを表現する機会」のみを提供する。ここでの「表現」とは、すなわち戦争であり、それは「装置」によって複製されることを前提としている。◉「大量複製の技術にとくにふさわしいのは、大衆を複製することである。[……]大衆運動、そしてその最たるものである戦争は、人間の行動形式のなかでとくに装置にふさわしい形式を呈示している」。さらにベンヤミンは、帝国主義戦争に大衆みずからが参加するとともに、映画などの視覚メディアをつうじて「自分自身の破滅を第一級の審美的享楽として体験する」という終末論的な光景を、「人類の自己疎外」の究極をなすものとして位置づけているが)、まさにそれは、複製された自分自身の姿を集団で受容することでプロレタリア大衆が革命主体へとみずからを形成するというプログラムの皮肉な戯画をなしているといえるだろう。
技術はふたたび自然と人間自身にたいする容赦なき支配の道具となり、最新鋭の戦争兵器とおのれの身体とを一体化させた哀れなミッキーマウスの末裔たちが戦場に「できるだけ多く投入」される一方、テクノロジーによって殲滅される悲劇的な光景を「気散じ状態」で鑑賞しながら「審美的享楽」に耽ることで、人類は「技術によって変化した感覚的知覚を芸術的に充足させる」のである。
映画産業が「強力なジャーナリズム機構」と結託してつくりあげた商業主義的な人格イメージとしての「スター」とはまさに、ひとたび滅亡した「アウラ」の欺瞞的復活であり、〈アウラの亡霊〉のイデオロギー的活用にほかならないといえるだろう。
かくして、技術的複製可能性の増大にともなう芸術作品の「アウラの縮小」と正確に反比例するかたちで、スター俳優の「パーソナリティ」が盛んに喧伝される。この〈擬似アウラ〉が本来の「アウラ」と異なるのは、それが大量複製されることを前提としており、本質的に「展示価値」に基づいているからである。
ファシズムと複製技術をめぐる以上の議論から明らかになるのは、共産主義が進める「芸術の政治化」とファシズムが進める「政治の審美主義化」が、まったく同一の技術的・社会的な条件に立脚しているという点である。芸術作品のみならず、人々の生活や労働、政治の領域、そして何よりも大衆自身がことごとく技術的複製の対象とされ、それらを受容する知覚形態に根本的な変化が生じるとともに、さらには複製可能性を前提とした新たな表現形式や、新たな大衆組織が生じつつあるという時代状況が、ファシズムによる暴力支配の基盤と、プロレタリア大衆による革命のチャンスとを、同時にもたらしているのだ。ただし、ファシズムにとっては、「現行の所有関係」を恒久的に維持するという反動的な目的がすべてであり、戦争というかたちで大衆とテクノロジーとの血腥い響宴の舞台を用意するのも、制御不可能となって「反乱」する技術の膨大なエネルギーを、「現行の所有関係」の廃絶を掲げる「権利」をもった大衆にたいして発散させることで、双方が孕みもつ脅威を未然に封じ込めるためにほからない(「帝国主義戦争は、技術の反乱である。社会が技術の要求にたいして自然の資源を与えなくなったことで、技術は「人的資源」を取り立てているのか」。ここでの歴史的に継承されてきた権力構造としての「現行の所有関係」は、いうなればギリシア悲劇における「運命」のように、大衆の行動や感情を「過剰規定」し、閉ざされた円環構造のなかで人々に「犠牲死」を強制する。そして、「第二の自然」や「展示価値」など、本来であれば革命への展望を開くはずの新たなテクノロジー的特性は、「第一の自然」や「礼拝価値」という過去の論理のうちにふたたび書き入れられ、たんに大衆支配に奉仕するものへと貶められてしまう。
ベンヤミンにとっての革命とは、連続的で空虚な時間進行としての「歴史を逆撫でにすること」であり、とりわけ〈進歩〉という現状追認的でイデオロギー的な歴史表象によって抑圧された複数の過去を「召喚=引用」することであった。つまり、忘れ去られた過去、そしてさらに、かつてありえたかもしれなかった過去へと遡及するためのアナクロニズム的な回路こそが「革命的」なのであって、過去と現在と未来とを弁証法的にモンタージュすることで、新たな時間性の領野を開示することが決定的に重要なのである。それゆえ、引用したアドルノ究書簡における「無声映画」という形象は、過去のうちになおも汲みつくされていないままに残存する革命への潜勢力をあらわす符号として、それにたいして「トーキー映画」という形象は、そのような豊かな過去へと遡るための追想の回路を暴力的に遮断する現在の強制力の符号として、それぞれ捉えなおすことができるだろう。
註
「批評とは作品を懐死させること」であり、批評をつうじて「はかなき美のすべてが完全に消えゆき、作品が廃墟として自己主張するような新生の基礎」がつくりだされるのである。
「映画が果たすさまざまな社会的機能のなかで、人間と装置のあいだに平衡をつくりだすことがもっとも重要である」
第3章 補論 Ⅰ
外来語の救済
ーー初期アドルノにおけるクラウス的な主題をめぐって
ベンヤミンによれば、「諸現象は[……]粗雑で経験的な状態のまま丸ごと理念界に入っているのではなく、諸々の構成要素に分解されたかたちでのみ、救出されて、理念界に参入する。[……]諸事物を解体して構成要素に分けるものが、概念に他ならない」。
アドルノは、外来語の使用において真に決定的なのは「認識」であると規定しーー「外来語を正しく使用しているかどうかを真に決定するのは、教養ではなく認識である。
◉外来語とは引用である。だが、自分たちが引用しているのはおのれの教養や特殊な知識であるとどこまでもなお主張している文筆家たちは、〔実際のところ〕ひとつの隠された、実証的には知られていない言語から引用しているのであって、それは、あたかもみずから未来の言語へと転化しようとするかのように、既存の言語に不意に襲いかかり、重なり合い、変容をもたらすのである。[……]知られていない本来の言語がもつ力は、計算によって開示されるものではなく、ひとえに既存の言語の崩壊から少しずつ現れてくるのだ。この否定的で、危険であるとともに、確かに約束されたものである力が、外来語を真に正当化しているのである。
◉アドルノは、「超越」を何か実定的なものとして表象するような「想像力の欠如」を非難する一方で、既存の事物のうちに徴かな「救済の可能性」を読み取ることの必要性を訴える。まさにそれは、徹底的に物象化された現実社会のなかで、あるべきユートピアの姿を具体的なかたちで表象することを断固として退けながら、同一性の圧力と交換原理に還元されない〈他なるもの〉の痕跡を知覚・認識するべきだという、アドルノ哲学の根本要請にほかならないといえよう。
第Ⅱ部 メーディウムとしての芸術作品
第4章 芸術の認識機能
ーーアドルノのシェーンベルク論をめぐって
◉あくまで芸術作品は〈自己 – 律法的:auto-non〉なものとして、完全におのれ自身の内在的な論理のみに従う自給自足的な存在でなくてはならず、芸術家の意図や受容者の解釈と行った主観的な契機のうちにも、さらには技術的な諸条件や社会的な文脈といった客観的な契機のうちにも回収されるものであってはならないという信念に裏打ちされているといえよう。
すなわち、作品を統御する形式的・内在的な力が綻びをみせ、「認識」を可能にしている「自律的」な構造がおのれの諸矛盾によって自己瓦解する瞬間のうちにこそ「希望」を見出すというモティーフである。
芸術作品が孕みをもつ「真理内実」は、作品そのものがおこなう「認識」ではなく、作品にたいして超越的な位置にある哲学的批評がおこなう上位の「認識」によってはじめて開示されるのであり、その意味において芸術にたいして据えるへーベル的なヒエラルキーのなかになおも納まっている。
ルカーチの有名なテーゼによれば、「人間にたいして、人間固有の行為である人間自身の労働が、何か客体的なもの、人間か独立したもの、人間とは疎遠な固有の法則性によって人間を支配するものとして対立させられる」。つまり、人間労働の産物であるはずの商品が、貨幣という抽象的な媒介によって相互に交換されることをつうじて、あたかも外在的・自律的な法則のもとで運動しているかのような様相を呈する時、この「法則性」が、主体によっては克服しえない永続的な秩序ーールカーチの用語では「第二の自然」ーーとして物象化されることによって、人間の生活実践をあまねくコントロールするようになるというのである。
そして、このような資本主義社会における物象化の帰結として招来されるのが、計算可能性に基づく合理化の原理の全面的な浸透と、それにともなう人間の自己疎外にほかならない。経済的諸関係が自律化し、等価交換原則が社会全体を貫徹していくことによって、労働過程もまた抽象的に分解された分業体制へと必然的に移行する。
かかる物象化の傾向は、経済の領域に限定されるのではなく、官僚制、ジャンーナリズム、法学、そして近代科学においても、主体と客体との決定的な分裂と、客体化された抽象的機構による人間主体の隷属化という現象が普遍的に見られるとルカーチは説く。
そして、非人間的な合理性に徹頭徹尾支配された近代社会において、「外界のさまざまな対象と同様に、人間が〈所有し〉〈譲渡する〉ような〈モノ〉」となった人間たちは、みずからもまた代替え可能な客体として処理されていくなかで、おのれの意識さえも物象化されていき、ついには「自分自身の存在が、疎遠な体系の中に組み込まれ孤立化した小部分として現れるという事態を、なんのはたらきかけもせずにただ傍観する者」となるのである。
つまり、世界の物象化を克服できるのは、唯一の革命的階級であるプロレタリアアートが、資本主義的生産過程のなかで商品として疎外・物象化された自らの矛盾的な様態を冷徹に「自己認識」することにおいてほかはないのだ。
大衆は、「自己認識」にいたるのに必要な思考力や感性を全面的に退化させられてしまったのであり、その結果、「小児段階で成長がとまった人間」として、「こうした認識の可能性そのものをかたくなに否定する」ようになるというのだ。
アドルノにあって、このような「モナド」としての音楽芸術の「表出」は、つねに「自分自身の素材において、自分自身の形式法則に即して」、つまり、「素材」という客観的契機と「形式法則」という主観的契機とのあいだのアンチノミー的な葛藤をつうじて遂行されることとなる。
社会における「芸術としての音楽の使命」とは、おのれの創作上の「素材」と弁証法的に対峙するなかで、全ての社会的矛盾の根底をなす〈自然支配〉のメカニズムを内在的に呈示するとともに、等価交換関係の桎梏のうちに閉じ込められ、完膚なきまでに物象化された人々や諸事物の苦痛を、みずからの形姿においてミメーシス的に擬態化することによって、〈文字〉という可視的な形式へと変換することにあるのである。
◉すなわち、芸術作品は、主観的形式と客観的素材とのあいだの内在的葛藤を極端にまで先鋭化させることをつうじて、現実社会の諸矛盾を表出するとともに、両景気の矛盾を止揚するような「自由」の可能性をも密かに示すことができるというのである。
◉「新音楽は、現実にたいするおのれの矛盾的な関係を取り上げ、それをみずからの意識のなかへと、みずからの形姿のなかへといたらしめる。そうした態度において、音楽はおのれを認識へと先鋭化するのである」
◉「芸術が遂行する認識行為のなかで、芸術の形式は矛盾にたいする批判となるのだが、それは矛盾の和解の可能性を指し示すとともに、それによって矛盾のなかの偶発的なもの、超克可能なもの、絶対的ではないものを示すことによってなのである」。
新しい芸術は矛盾をそのままにしておき、おのれの判断カテゴリーである形式の裸の原石をあらわにする。それは裁き手の威厳をかなぐり捨て、現実によってしか宥和されな嘆きの状態に戻る。断片的で、おのれ自身を放棄した作品においてはじめて、批判的内実は自由となる。
◉亡霊のようにさまよっているということは、たんなる外的な運命ではなく、形成物の盲目的な頑なさの表現なのであり、それが現在の支配関係のうちに囚われていることによって生じていることは言うまでもない。しかしながら芸術作品は、認識するものとして、批判的で断片的となる。
「断片的な芸術作品」は、「全体と部分とが破れ目なく接合している」という「アウラ」的な幻想をみずから打ち消し、「閉ざされた」おのれの構造を解体するというその自己否定的な身振りによって、非主体的なかたちでの「認識」を遂行するのである。アドルノにとって「アウラ」とはあくまで内在的に超克されるべきものであり、ユートピアもまた、みずからを徹底的に「断片化」し、自己放棄する芸術作品という「全面的な否定性という状況のもと」においてのみしか表現されないのである。
◉音楽の終末がそうであるように、音楽の起源は、諸々の志向の領域、すなわち意味と主観性の領域を超えていく。
人間は、泣くことのなかで、そして、もはや無関心ではいられないような音楽のなかでみずからを流出させるとともに、自分自身ではないもののの流れ、事物世界のダムの背後に堰き止められていたものの流れをみずからのなかに溢れこませる。
それはまさに、主体の内部に潜む〈自然=本性(Natur)〉を、合理的支配の対象として暴力的に同一化するのではなく、内的衝動として溢れ出るがままにさせ、その奔放な流れに敢えて受動的に身をゆだねることによって、「自分自身ではないもの」の存在を身体的に感知することにほかならない。そして、この〈非同一的なもの〉の経験においてこそ、自然とのユートピア的な「宥和」の微かな可能性が感得されるのだ。
いうなれば、おのれ自身の解体の条件を孕んだ真正なモダニズム芸術作品とは、現代社会にあって人間が、外的・内的な〈自然=本性〉をミメーシス的に経験し、主観性のうちに還元されない〈非同一的なもの〉として省察させるような特権的な媒体にほかなならいのである。
矛盾という指導的なカテゴリーは、それ自体が二重の本質をもっている。すなわち、一方では作品が矛盾を形成し、そのような形成の際に、形成の不完全さの傷跡においてふたたび矛盾を浮かび上がらせるということが作品の成功の尺度となるが、他方ではこの矛盾の力がかかる形成を嘲弄し、作品を破壊するのである。
哲学的批評が最終的に目指すものとは、作品に内在する「矛盾」を徹底的に突き詰め、顕在化させていくことをつうじて、作品を「破壊」へともたらすことにほかならない。そして、「矛旨」がさらなる「矛盾」を産出していくという負の連鎖こそが、逆説的にも作品の「成功」の度合いを測る基準となるのである。かってベンヤミンは「批評とは作品の壊死であり、「哲学的批評」とは、作品の根底にある「歴史的な事象内実」を「哲学的な真理内実」に変えることによって、「作品が廃墟として自己を主張するような[……]新生の基盤」を拓くことを対象とすると規定していた。それと同様に、アドルノもまた、哲学的考察の暴力的な力に晒された作品がおのれの矛盾に引き裂かれるようにして瓦解し、「廃墟」と化していく自己解体の過程から、「希望なきまでに疎外されたもの」としての作品の「真理内実」を浮かび上がらせようとするのだ。
哲学的認識こそがまさに、作品のうちなる諸矛盾を顕在化させ、作品そのものを自己解体へといたらしめるまでかかる矛盾を突き詰めていくことで、音楽芸術が置かれた歴史的な隘路を突破することができるというのである。
芸術作品を[……]それ以上のものにするのが精神にほかなら」ず、「精神は芸術作品のエーテルであり、作品をとおして語るもの、あるいはより厳密に言えば、作品を文字へと変えるもの」であって、それは「作品の感性的契機の布置状況から」飛び出してくる。
◉「芸術作品の真理内実とは、個々の作品の謎を客観的に解消すること」であり、この「真理内実」は「哲学的反省をつうじてしか獲得しえない」。「哲学と芸術は芸術の真理内実において収斂する」がゆえに、「真正な美的経験は哲学とならなければならないか、あるいはまったく存在しないかのいずれかである」。
ヘーゲルにとって芸術美とは「理念の感覚的な仮象」であり、非概念的なかたちで現象した真理であるが、理念が「精神」として発展していく歴史的過程のなかで、しだいに芸術という形式は理念の受け皿としては不十分なものとなり、最終的に没落する(「芸術の終焉」)。つまり、ヘーゲル美学において、「仮象」としての芸術美は、あくまで真理の暫定的な現れにすぎないのだ。それにたいしてアドルノは、絶対的な「真理」が非本質的な被いとしての「仮象」=「芸術作品」から徐々に分離し、純粋な姿を現していくという見解を、そのままのかたちで受け入れることはない。
アドルノにとって、芸術作品の「真理内実」は「概念を欠くものとして、つくられたもの以外のものから現象することはない」のであり、それははつねに「仮象」とーー「仮象なきものの仮象」と一ー不可分の関係にある。だが、他方で、「真理内実」それ自体が「つくられたもの」ではありえない以上、「真理内実は作品のなかではたんに否定的なものにすぎない」。ともアドルノは述べる。「芸術作品の真理内実は無媒介的に同定しうるものではない。真理内実は、ただ媒介されたかたちでのみ認識されるように、それ自体のうちにおいて媒介されているのだ」。芸術作品にとって「真理内実」とは「仮象」としてのおのれの臨界点であり、媒介的に関わる以外には参与しえない圏域であって、そのなかでは「つくられたもの」としての自己の存在は必然的に「没落」せざるをえないーー「あらゆる芸術作品は形成物として、おのれの真理内実のなかで没落する」。言い換えれば、「真理内実」を現出させるためには、「つくられたもの」=「仮象」としての芸術作品という媒体が不可欠であるが、この「真理内実」は、哲学による暴力的な介入によって作品の仮象性が打ち破られる瞬間にしか顕現しないのだ。
だが、「仮象なきもの」としての「真理」を「仮象」をつうじて媒介的に出現させるという芸術作品のアポリア的な課題はさらに、「存在せざるもの」を現前させるという、芸術が抱えるもうひとつの課題にもつうじていく「芸術作品がそこにあるということは、存在せざるものが存在しうるかもしれないことを指し示している」。そして、ここでいわれる「存在せざるもの〔das Nichtseinde〕」は、アドルノの思考のなかで、「いまだ存在せざるもの〔das noch nicht Seiende〕」だけでなく、「かつて存在したもの〔das Gewesene〕とも密接に関わっていることは注目に値する。
◉それが、かつてあったもの、もはや存在しないもの、いまは忘却されたものとしての過去へと想いを馳せるとともに、この過去の記憶を、「いまだ存在せざるもの」への憧憬へと転換することを可能にする稀有な媒体であるからである。もっとも、そこで追想されるべき過去とは、あくまで非実体的な「仮象」であり、はかなく消えていく刹那的なイメージにすぎない。だが、それはまた、この「想起」の瞬間が、純粋に感覚的な経験といて、何らかの思考や認識によって同定したりすることを根本的に拒絶するものであることを意味してもいる。アドルノが「芸術作品において不可欠の感覚的契機」の重要性を強調するとき、そこには、たんに芸術作品が〈いま・ここ〉に現前しているという揺るがしえない事実を指しているだけでなく、作品を受容するということが、まさに「美的経験」であって、概念に還元されることのない知覚的な次元を備えているということを暗に示唆していると捉えることができるだろう。
◉アドルノは「作品を客体化する力」としての「精神」を読み解くことで、そこから「真理内実を認識する」ことを「哲学的批評」の課題としていた。それは、「精神」が芸術作品をつうじておのれをつうじておのれを外化していく軌跡を思弁的に再構成することであると言い換えることができるだろうが、アドルノによれば「美的経験」とは、そのような「精神」の自己展開の可能性の限界を徴づけるものにほかならない。
◉この「非同一的なもの」をまえにして、「精神」ですらももはや、優越的な立場から他なる対象をおのれのうちに一方的に併合し、我有化することは許されない。「精神は非同一的なものを同一化することはない。精神はみずからを非同一的なものへと同化するのである」。このようにして、芸術作品において「精神」が他なるものとのミメーシス的な同化をおこなう瞬間、いかに刹那的であろうとも、作品だけでなく、「精神」そのものが没落し、みずからを超出する。そのとき、「哲学的反省」もまた、おのれの同一性を保持しつづけることはできないだろう。芸術と哲学の双方が「非同一的なもの」をまえに解体されるなかで、過去と未来、可能性と現実、存在と非存在、仮象と真理とが渾然一体となって交錯・照応しあう一瞬の知覚経験ーーアドルノが芸術作品の「真理内実」と呼んでいたものとは、まさに複数の「非同一的なもの」が感覚的に触知されるというこのエピファニー的な瞬間なのである。
◉芸術も、哲学も、ともに「非同一的なもの」として知覚・経験されるべき「真理内実」を志向しているという点では完全に等しいのであり、哲学が芸術にたいして優位であるのは、芸術作品がおのれのうちに孕みもちながらも、独力では展開することのできない「真理内実」を、否定的なかたちで浮かび上がらせることができるためにすぎないからだ。それゆえ、芸術がみずからの「真理内実」を露顕させるために「哲学的省察」という認識的な契機を必要とするように、哲学的精神もまた、「かつて存在したもの」のはかない痕跡を概念によって暴力的に抑圧・同一化するのではなく、おのれの有限性を自覚しつつ、この「非同一的なもの」とミメーシス的な宥和の関係を取り結ぶためには、「仮象」という表層的・感覚的な契機をつねに必要とするのである。『否定弁証法』(一九六一 – 六六)のなかの次の印象的な一節が示唆するのは、まさにそのことにほかならない「それゆえ、美学の対象である仮象の救済は、比類のない形而上学的意義を有しているのである」。
哲学と芸術は、非同一的で非感性的な「真理」をともに志向しながらも、前者は概念的同一化によって、後者は「仮象」という感性的な契機をつうじて「真理」を目指さざるをえないという根本的な矛盾を抱えている。それゆえ、「芸術の真理内実」が浮かび上がるのは、哲学的省察をつうじて作品の仮象性が解体されるとともに、認識の主体である精神そのものが「みずからを非同一的なものへと同化」し、つまりは「仮象なきもの」に仮象的に擬態しようとするなかで、哲学と芸術とがともにおのれを場棄し、自己超出する瞬間においてなのである。
◉アドルノは、これまでの彼の美学関連のテクストではほとんど省みられることのなかった側面にはじめて焦点を当てる。すなわち、芸術作品の受容経験という感性的な契機であり、作品を介していかに「非同一的なもの」が感覚的に経験されるかという問題であって、ここにおいて芸術作品は、認識の媒体から知覚の媒体へと決定的な転換を遂げることとなる。
◉現代において芸術を芸術たらしめる不可分の条件となるのが、〈非芸術的なもの〉にほかならず、そのような異質な契機ーーとりわけ、あらゆる芸術が所詮は無意味なキッチュにすぎないというシニカルな自己認識ーーをおのれのうちに取り込み、それよって芸術を廃棄しようとする身振りをつうじて芸術が延命していくという逆説的な命題を掲げるにいたる。それは、「おのれ自身を放棄した作品」のうちに美学的な潜勢力を読み取るという「シェーンベルクと進歩」での主張を、個々の作品のレヴェルを超えて、芸術というカテゴリーそれ自体のレヴェルにまで拡大したものと捉えることができるだろう。
第5章 破壊と救済のはざまで
ーーアドルノ美学におけるキッチュの位置
◉商品や娯楽を媒介として産業資本がいかに大衆を愚鈍化させるかという問題を検証するのだが、彼らのいう「文化産業」とは、キッチュな商品を「文化」の名のもとに大量供給するとともに、本来の芸術を商業主義によって内側から腐食させるという点をつうじて規定される。
商業主義やテクノロジーなど、外在的な要素のすべてを遮断し、社会的な孤絶を貫きとおしながら、内在的な形式論理を極限にまで先鋭化させていくモダニズム芸術。その悲壮な姿に、そのころアメリカで「亡命下の知識人」として「陰鬱な学問」に没頭していたアドルノが自らの現状を重ね合わせていたのではないかと推測することは、あながち的外れではないだろう。
アヴァンギャルド芸術とは、キッチュという名の汚水を頑なに遮断しつつ、〈絶対的な忘却〉という深淵に向かってひたらす流されることを、みずから積極的に希求すべきなのだ。
つまり、美学的な自律性とは、それが確立された一八世紀後半からすでに、通俗的な趣味嗜好と感覚的な快楽をその外部へと追放するという排他的な操作のうちに成立しているのである。
一方でアドルノは、もっぱら文化産業批判の文脈のなかで、資本主義体制下で消費者大衆に供給される文化商品を「キッチュ」の名のもとに激しく糾弾するとともに、〈芸術のための芸術〉を標榜する高級芸術でさえも、それが過去の様式を反復することに甘んじるようになった瞬間にたちまち「キッチュ」に堕してしまう、という主張をおこなっていた。だが、他方でアドルノは、「キッチュ」を美的素材として活用するような芸術捜索を積極的に是認するような見解を繰り返し表明しつつ、「キッチュ」に含まれる通俗性や愚かさといった位相のうちに、ユートピア的な〈救済〉の可能性を模索しつづけるのである。
現代において、芸術という形式そのものが、おのれとは異質なものを自己のうちに絶えず取り込みつづけるという身振りを介してのみ成立しうるのであり、キッチュな映画、さらには自らの意味喪失といった非芸術的な要素を包摂すること以外には、芸術というカテゴリーを延命する道は残されてないというのだ。
〈吐き気を催させるもの〉
◉「何度も聞かされる思いつき、退屈な物語、自画自賛、食事の過多、やたらに甘いのや脂っこいもの。」
「精神の養分としては利益にならない」にもかかわらず「われわれに押しつけられる」とき、
それを避けようとする「自然な衝動」もまた「アナロジーによって吐き気と名づけられる」。つまり、「享受」するよう反復的に強制される退屈な過剰そのものこそが、「吐き気を催させる」
「吐き気とは、「美」の下限であるとともに上限であり、「美」の敵対者であるとともに「美」に固有の傾向をなす」。
「美」に潜在する自己破壊の脅威は、「美」が「キッチュ」へと弁証法的に反転する脅威に通じているという。
◉アドルノによれば「キッチュとは」「敵対するものが不在であるがゆえに」同時に自分自身と「矛盾している」美であり、それはまさに屈折がないことによってみずから「醜」へと反転してしまう。
要するに、ここでアドルノは、「美」の根源にある「醜」に立ち戻ることによって、おのれの「現状肯定的なもの」をつねに自己否定していくことが、芸術という概念にとって不可欠であるという議論を展開していくのである。
◉芸術はこの他なるものを欠くなら、それ自身の概念からして存在することすらなくなる。こうした他なるものは否定をつうじて受け入れられ、精神化する芸術の現状肯定的なものを蝕みながらそれに訂正を加える。
◉かつて「美」として認められていたものに安住しようとするならば、そのような怠惰な姿勢は、矛盾性の欠如という自己矛盾によって、「美」のキッチュへの反転という事態を招くのである。
「キッチュは毒素として、すべての芸術のうちに混入しているのである。この毒素をわが身から切り取ろうとするところに、今日の芸術の絶望的な努力のひとつが見られる」。
キッチュは何らかの偶発的な要素として外部から芸術に侵蝕してくるのではない。
モダニズム芸術作品のうちにも、すでにキッチュが「毒素」として入り込んでいる以上、アヴァンギャルドとキッチュとを明確に分別することはそもそも不可能なのだ。アドルノのモダニズム美学から最終的に導き出されるのは、キッチュなくしては芸術はありえないという逆説的な帰結にほかならないのである。
芸術作品は、このキッチュという契機を媒介として、主観的な意図によっては到達しえない「作品の非志向的な層」に接近することができるのだ。芸術を通俗的な方向へと堕落させ、破壊するキッチュであるが、そこに沈殿する〈他なるもの〉の残滓のうちには、同時に、志向性による自己支配の軛から芸術作品を解放し、主観性の暴力から人類を「救済」へと導くための微かな手がかりとなるものが潜んでいるのである。
アドルノによれば、「芸術という理念」とは、外部の現実世界を本質的に否定するものでありながらも、それと同時に、つねに「諸芸術」のうちに「否定的」なかたちで内在し、みずからを客体化させるべく促すものであるために、経験的な諸契機から切り離すことは許されない。◉「芸術が芸術となるためには、おのれとは異質なものを必要とする」のである。そして、このような洞察は、『美学理論』のなかの先に引用した「芸術はこの他なるものを欠くなら、それ自身の概念からして存在することすらなくなる」という一節と呼応していると考えることができるだろう。
◉とりわけアウシュヴィッツ以降、芸術作品と現実世界との対立図式や、「芸術の意味」という創作の基盤そのものがイデオロギー的仮象にすぎないことが暴かれ、完全に瓦解してしまったなかで、なおも「おのれとは異質なもの」を求めようとする現代芸術の衝動は、自らの意味喪失や、意味付与をおこなう主体の自己放棄という契機をも、不可避的に自己のうちに取り込んでいかざるをえないというのである。
芸術は、あたかも自分を破壊したいかのように、あるいは毒を持って毒を制することで延命したいかのように、おのれの意味喪失を取り入れていく。
アドルノは、現代芸術の自己解体という契機のなかに、ひとつの逆説があることを指摘する。すなわち、芸術作品が有意味的なものとしての自己を否定し、あらゆる意味を廃棄するという身振りをつうじて別の意味連関を新たに再構成し、そのことによって、美学的領域を拡張し、死んだはずの「芸術」をさらに存続させていくという逆説である。◉芸術的主体が「おのれの意味喪失」を進んで取り入れ、そのことによって自己を無にすることをいかに希求しようとも、それは「自らの意図に反して、芸術の最後の言葉でありつづけることができるわけではない」のだ。
芸術作品にとっての問題は、かつての美を無批判に反復することでキッチュと化すことでもなければ、おのれのうちなるキッチュを介して「作品の非志向的な層」に到達することでもない。
それはあたかも、あらゆる芸術はすでにキッチュであるがゆえに、あらゆるキッチュは芸術となりうるとでもいうかのようだ。
◉「おのれの意味喪失」という要素を積極的に内部へと取り入れていくことだけでなく、自らのうちなる「芸術的なもの」を外部へと排除しようとすることもまた、「芸術」を廃棄するどころか、むしろ「芸術」を「拡張」することに寄与してしまう。いくら無意味なものとして自己否定し、〈非芸術的なもの〉に擬態しようとも、にもかかわらず「芸術」はつねに復活し、外部の領域をみずからのうちに貪欲に併合することをやめることはない。
〈芸術的なもの〉を美的領域から躍起になって追放する一方、「おのれの意味喪失という契機」や卑俗でキッチュな「毒素」にみずから蝕まれながらも、なおも「延命」しつづける現代芸術のうちには、ベンヤミンの言葉を借りていうならば、「希望なき人々のためにのみ」与えられた、微かな「希望」が潜んでいるのである。
第6章 補論2 挑発としての擬態
ーーアドルノの文化産業論再考
◉大衆とは主要なものではなく、従属的なものであり、計算に入れられたものであり、機械装置の付属物にすぎない。顧客とは、文化産業がそう思わせようとしているのとは異なり、王様でもなければ主体でもなく、たんなる客体にすぎないのである。
どのような理由からであれ大衆文化を擁護するような言説は、つねにすでに文化産業論の言説のなかに書き込まれ、事前に論駁されているのである。
同様のことは、アドルノの文化産業論にたいするもうひとつの主要な批判、すなわち、一般に「大衆文化」と総称されるものが孕みもつ微細な差異や豊かな細部、個性的な表現、独創的なスタイルなどが完全に等閑視されているという批判についても当てはまる。
文化産業論を読むという行為とは、言語によって凝縮された産業資本のメカニズムを、凝縮されたかたちで疑似体験することだということもできるかもしれない。ただし、そこには、誇張とイメージ化とともに、さらに読者の情動を挑発的に刺激するような、もうひとつの修辞的な工夫が施されていることに注意する必要がある。
アメリカのマスメディアも、ナチス・ドイツのマスメディアも完全に同一であり、たんに「どれでも自由に選べるという見せかけ」が一応は保持されているか、「あからさまな命令」であるかという違いにすぎない。
文化産業とファシズムに共通するものは、ミメーシスとプロパガンダという二つの契機に集約されるだろう。巨大企業は、スター俳優に象徴されるような、大量生産された画一的なイメージに消費者大衆がミメーシス的に同一化するよう、さまざまな宣伝テクニックをもちいて巧みに誘導する。
大袈裟な修辞表現によって相手に強く印象づける誇張法、攻撃対象を単純化・矮小化する画一化されたイメージ、根拠を欠いたままに繰り返される断言など、先に指摘した文化産業論の言説上の特徴の数々は、そのまま商業的・政治的なプロパガンダの手法と合致する。つまり、文化産業がファシズムと密かに共有しているイメージ/ミメーシス/プロパガンダのあいだの結託関係にたいして、アドルノたちがとる言説戦略とは、毒をもって毒を制するとでもいうような、一種の同種療法にほかならない。
◉「エッセイの真理」とは、主観性や恣意性とは切り離しえず、「おのれの非真理をつうじて出てくる」ものであり、「そのいかがわしいところや追放されたところ」、「移ろいやすく堅実さを欠いているところ」にこそ存在するものであると規定されている。
つまり、文化産業批判の矛先が向けられているのは、全体主義的体制そのものではなく、そのまったく対極にあると見なされてきた自由主義的な社会であり、ファシズムという病理を蔓延させた集団的なメンタリティが産業資本をつうじて密かに組織的に再生産される構造的なメカニズムを告発することに重点が置かれていたのである。
野蛮はそのような逆行を促進した諸条件が本質的に存続しているかぎり、持続する。
◉大量消費文化と全体主義との内在的連関に関するアドルノの認識を胸に刻みながら、既存の社会の変革に向けて、いかなる言説戦略のもとで批判的思考を伝達するべきかを絶えず問いなおし、倦まず実践に移していくことが、なおもアクチュアルな課題のひとつでありつづけているのではないだろうか。
第Ⅲ部 変容する投壜通信
第7章 投壜通信からメディア公共圏へ
「自然美」とは『美学理論』の鍵語のひとつであり、「普遍的な同一性という呪縛によって捉えられている事物における、非同一的なものの痕跡」をなすとともに、主体にたいする「客体の優位」を証し立てるものとして、主体にたいする「客体の優位」を証し立てるものとして、主体による同一化の暴力に微かに抵抗するような諸契機をあらわしている。そして、「文字」もまた『美学理論』のなかできわめて重要な位置を占める形象であって、芸術作品がおのれの経験的な諸条件を超えて「超越的なもの」へと高まる瞬間を、アドルノは「一瞬きらめいては過ぎ去っていく」ものの、「その意味を読み取ることができない」ような「文字」の経験的であると規定する。要するに、◉アドルノにとって「自然美」および「文字」とは、あらゆる芸術作品がミメーシス的に模倣すべきモデルであるとともに「意味」を主体的に同定することのできない「非同一的なものの痕跡」が刹那的に現象するエピファニー的な瞬間を指し示す比喩形象にほかならない。つまり、映画メディアが「自然美」や「文字」を経験するのに似た「主観的な経験芸術」をテクノロジー的に「再生産」し、鑑賞する人々に疑似的に体感させるという営為のうちにこそ、映画メディアの美学的な可能性が胚胎しているというのである。
ここにおいて、映画を含めた芸術作品は、一種の〈知覚〉の媒体として捉えられているといえるだろう。
ここではむしろ、「非同一的なもの」を媒介し、鑑賞者に無意識的・身体的なレヴェルで知覚させるという新たな芸術作品のモデルが、比喩的なかたちで示されているのである。後期アドルノの美学的な認識論にとって、芸術作品の使命とは、自立的な形式構造のなかで社会の苦境を否定的に表現するだけでは十分ではない。自然支配の使命とは、自律的な形式構造のなかで社会の苦境を否定的に表現するだけでは十分ではない。「再生産=複製」し、鑑賞するにたいして知覚・追想させることが、あらゆる芸術作品の美学的課題なのであって、そのカテゴリーに媒介された狭義のメディアも含まれるということが、「映画の透かし絵」のこの一節において示唆されているのだ。
◉芸術が「おのれとは異質なもの」を貪欲に包摂していくプロセスとは、否定的契機を介して芸術というカテゴリーが肥大化するプロセスであるとともに、〈知覚〉の媒体としての芸術作品のあり方が多様化を遂げていくプロセスでもある。
かかる「解きほぐれ」の過程をみずから徹底的に推し進め、「芸術を拡張」していくことこそが、今日において芸術がアクチュアルな可能性をもつ唯一の方途なのであって、ひとつのジャンルやメディアに固執することなく、複数の領域や軽やかに横断し、あるいは既存の規則や形態を容赦なく分解していくことが。いまやすべての芸術家に要請されているのだ。
文化産業の物象化されたシステムに戦略的に介入することによって、大衆消費物として生産されるメディア・コンテンツや、それを生産する産業機構そのものを〈非同一的なもの〉を経験するための〈知覚〉の媒体へと密かに機能転換・変容させることにほかならない。つまり、〈美的なもの〉の領域を現実社会にたいする絶対的なアンチテーゼとしてたんに措定するだけではなく、映画やテレビの制作機構のような文化産業のイデオロギー的体制の内側において、〈他なるもの〉への知覚経験の回路を開くための具体的な方途を模索するべきなのである。
完全に商業的・産業的な関心によって組織化された「生産の公共圏」は、余暇や家庭教育を含めた大衆の生活世界のあらゆる領域を支配し、「意識産業」による統制プログラムをつうじて、人々の「生連環」を「原材料」として加工処理し、あらかじめ規格化された行動・思考様式にオートマティックに流し込んでいく。そのなかにあって、「経験」の主体であるはずの諸個人は、みずからの疎外状況を認識するための契機や、自己表現の可能性について意識する余地すらも完全に奪われたままに、メディアをつうじて日々大量消費される疑似経験のみを消費することを強いられるというのである。
第8章 労働のメタモルフォーゼ
ーーネークト/クルーゲ『歴史と我意』(一九八一)をめぐって
かかる「自分自身のもの」こそが、みずからの主体的アイデンティティを構成するものとして、歴史的過程として容赦なく進行する「分離」のなかで徹底的に収奪され、利用され、変容することを余儀なくされる対象であると同時に、かかる暴力的な「歴史」にたいする抵抗を可能にするものとしての「自己統制」ないしは「我意」の基礎をなしているのである。
簡潔に定式化するならば、「労働」を可能にする条件としてあらゆるものに備わる「自己統制」の能力が、「分離」という歴史過程に否応なく巻き込まれるなかで摩擦を引き起こすとき、それが「我意」という形態をとって「分離」に抵抗する契機として浮上するということができるだろう。
決定的に重要なのが、たがいに反発しあう「諸力の自己統制」ないしは複数の「我意」のあいだを調整することで、たがいに「移行」しあえるように組織的に方向づけていくような「介入」という「姿勢」にほかならない。
複数のエゴイスティックな欲望としての「我意」が激しくせめぎあう力の場において、「無媒介的な力」に闇雲に訴えるのではなく、対象や目的に合わせて柔軟かつ微妙に力を加減しながら、それぞれが最終的に「連合関係」を形成するように有機的に調整すること。
問題になっているのは、「分離」という歴史的過程のなかで、徹底的に排除され、寸断され、疎外された「労働」の能力や所産を、ふたたび相互に連結し、新たなアレンジメントを形成することで回復させることであり、そのための方途を「労働」そのものに固有の特質のうちに求めることにほかならない。『歴史と我意』という書物はまさに、このような「労働」による「労働」の救済というパースペクティヴに導かれているのである。
「自己同一性」は、個々の人間のなかで知覚される主観的なものでありながらも、他者にたいする関係を前提としてはいるという意味で、「社会的側面」を有しているものであり、「集合的な諸条件」のもとでのみ充足可能である。さらに特徴的なことは、「自己同一性」への欲望が、「非 – 自己同一性」という欠如状態にたいする「自然的な防御」として惹起されるという点であり、この「非 – 自己同一性」が社会的・歴史的・集団的なレヴェルで生じたケースの典型となるのが「ナショナルなものの喪失」という、ドイツがその歴史において何度も遭遇した事態である。
失われた「親密さ」への欲求を、すでに克服したはずの過去の状態へと退行することで代償的に充足させるケースも往々にして生じるのであり、集団的レヴェルにおいてそれは、たとえば「ナショナルな感情」のなかで国民国家へと幻想的に一体化するという形態をしばしばとることになる。
◉ときとして耐えがたい現実の変化のなかで、「分離不安と制御不能」の感覚に襲われた人々は、しばしば想像の領域へと撤退し、「太古の時代からの労働連関と生連関における人間たちの根本的に人間的な結びつきというイメージ」によって「自己同一性」を保とうとする。
かくして、「労働能力の自己実現と新たな結合」へと向かうはずの解放的なエネルギーが人々の心の内側に鬱積する一方、現実と内面とのギャップの中で「不安と過剰な消費の組織化」が進行する。
◉「戦争とは相手にみずからの意志を強要するためにおこなう力の行使である」というクラウゼヴィッツによる有名な定義を何度も引用しながら強調されるように、戦争とは確かに何かを生産するものではなく、〈敵〉というカテゴリーに入れられた「他者の意志を、すなわち他者の自律性を壊滅させること」を主要な目的とする暴力的な営為であって、徹頭徹尾「抽象化原理」に従っている。だが、戦争を労働という観点から考察した場合、そこには資本主義的な生産様式を特徴づけるほとんどすべての要素ーー「就業時間、マニュファクチュア、協働作業、分業、機械装置と巨大産業、労働賃金(現物支給、戦利品、俸給、保険、忠誠、満足感)、本源的蓄積、植民地化」ーーが揃っているのであり、「闘いの手段は、通常は生産手段と呼ばれているものと同一である」。
大きな違いといえば、通常の労働の場合、人間がみずからの労働力をもっぱら自然や事物に向けるのにたいして、戦争においては人間ーーすなわち〈敵〉ーーが労働の対象となるという点である。だが、近代において戦争の形態が、相対する陣営が直接的に戦争行為をおこなうものから、戦闘機による空襲や遠隔地からのミサイル攻撃などを中心にするものへと変化するにつれて、〈敵〉の現実性は喪失し、「死せる事物」と相違ないものとなっていく。
そして、敵のみならずおのれの国民や国土をも激しく荒廃させる「総力戦」の最初の切っかけをしばしば提供したのが、植民政策や市場獲得競争上の対立という「経済的な背景」であったことは、とりわけ近代以降のこれまでの歴史が如実に示すとおりである。
戦争は、利用可能なあらゆる生産手段を活用しつつ、既存の生産連関のすべてを徹底的に破壊する。そこで「個々人の意志」や「幸福」といった契機はたんなる「仮象」として否定され、代わりに「死、集団、不安」が支配的となる。戦争とは「集団的な歴史生産物のアナーキー的な我有化」であり、暴力に彩られた「事故」のようなものであるが、にもかかわらず民衆によってしばしば熱狂的に支持されるのは、「無力な諸個人」にたいして「みずからの労働能力」を「歴史の生産そのもの」のために活用することを可能にするからである。つまり、「分離」に晒され、「生産原理」との対応が失われることで「無規定」の状態に陥ってしまった「労働能力」が、「抽象化原理」に導かれる「戦争関係」の中でふたたび歴史的に方向づけられるのであり、「歴史と密接に接触している」という感覚こそが、「無力」を「力」であるかのようにイデオロギー的に錯認させる要因をなしているといえるだろう。いかに無秩序で破壊的であったとしても、戦争そのものは「歴史的 – 社会的な生産物」であり、「公共圏のひとつの特殊形態」をなしている。ただし、「公共圏」としての戦争において中心をなすのは、単なる「排除」(「ブルジョワ公共圏」)ではなく物質的な排除」であって、その論理に従って「殲滅労働」がひたすら遂行されるのである。
他者の意志を破壊し、おのれの意志を強制することを目指す戦争は、歴史的過程としての「分離と苦難」にたいする望ましい反応様式のまさに対極に位置づけられる。望ましい反応様式とはすなわち、「他なるものや自然法則を容認することによって、双方にとってより幸福な状態をふたたびつくりだす」こと、「他なるものの自律性をつうじて、みずからの自律性を生産する」ことを目指していくという、「生産原理」に基づく反応である。それはまさに、『公共圏と経験』のなかで「プロレタリア公共圏」という名称が与えられていた、既存の「公共圏」の変革と異他的なものに開かれた社会的経験の地平というユートピア的なヴィジョンの実現を可能にするための動力因であるといえよう。
対人的な「繋がり」は、そのすべてが「生きた労働」による生産物である。たとえば、愛情をもって親が子供を育てるという営みも、対象化された相手におのれの労働力を一定時間支出することで対象に価値を付加するという意味で一種の「労働」をなしているのであり、子供にたいする親の愛情のうちにはすでに、自己と他者とを截然と切り離すという「自己疎外」や「対象化」、排他的な「所有」といった資本主義的な契機が潜在的に含まれている。くわえて、家庭でおこなわれる教育もまた「一人の人間を子供から労働力へと変容させるプロセス」にほかならず、つまりは我が子を愛し、育てるという営みのすべてが、俯瞰的に見るならば、未来の労働力を生産するための有用労働の一環をなしているのである。
等価交換の原理に従ってリビドー的エネルギーを配分することを旨とする「労働」が、歴史的な「分離構造」に不断に晒されつづけた結果、資本主義的な生産様式とそれと結託する排他的な「公共圏」のなかに完全に組み込まれ、さらには「生産」という本来の役割からも逸脱するかたちで疎外・抽象化していくことにより、ついには戦争という倒錯的な形態へと行き着くことこになる。しかしながら、「労働」のうちには、「自分自身」のもの」に固執する「我意」という景気が含まれており、それは、資本家によって収奪される「私」の土地を必死に守ろうとする自作農のように、「分離構造」にたいする抵抗の基盤となりうるものである。もっとも、ここの「我意」がたがいに衝突することで、結果的に分断や排除にみずから加担したり、あるいは集団的なナルシシズムの熱狂のなかで「我々」ではない存在を暴力によって殲滅しようとすることも頻繁にあるだろう。
個人的な語りのなかで立ち現れる「可逆的な時間」とは、記憶や追想、さらには連想や想像のなかの時間であると言い換えられる。それは、単線的に流れる時間に抵抗し、現在のなかに過ぎ去った複数の時間を同時に呼び出すことが可能なのであり、ベンヤミンに倣って「みずからの過去を、そのつどの瞬間においても引用=召喚することができる」といってもよいだろう。
第9章 マルクス主義の死後の生
ーークルーゲ『イデオロギー的な古典古代からのニュース』
◉モンタージュとは連関の理論です。映画製作にあたって私はいつも、自分が見ているものがそもそも連関を持っていないという問題に直面します。
◉「リアリズムにとってモティーフとは、現実を是認することではけっしてなく、抵抗である」のであって、それはあるがままの外界を透明なかたちで再現するような形式に還元されるものではなく、「滑稽化」や「猿真似」のような「ラディカルな模倣」や、「夢」や「否認」のような「現実の圧力からの逃避」、さらには「挑戦的なモンタージュ」のような「攻撃」といった要素もまた「リアリズム」の不可欠な一部をなしている。なぜなら、われわれの「現実」を構成しているものは、実際に起こった出来事だけでなく、「何かまったく別のものをずっと欲していた、そしていまも欲している何世代にもわたる人々の労働によってかたちづくられている」からである。
「現実」とは、たんなる客観的な事実によって成り立っているわけではなく、その背後には、過去の世代に属する無数の人々がかつて心に抱いた「何かまったく別のもの」をめぐる諸々のイメージが、幾重にも層をなすようにしてうず高く積み重なっている。
そこで「自己統制」をつうじて相互に関連づけられるものは、神経系統から大衆のリビドー的なエネルギーまで多岐にわたっており、歴史記述においては「不可逆的な歴史」と「可逆的な歴史」を並存させることが要請されていたわけだが、後者のカテゴリーのうちに、失われた過去を現在へと蘇らせる「想起」だけでなく、「願望」のように現在のなかで未来を志向する感情や、「想像力」のように起こりえたかもしれないもの・起こりえるかもしれないものをイメージ化する能力も含まれているはずであろう。
モンタージュされた映像を媒介として過去と現在とが瞬間的に接合するとき、そこで一瞬閃めく歴史の真のイメージを捉える」ことーーベンヤミンとクルーゲがともに志向しているのは、まさにこのような〈救済〉の瞬間なのではないだろうか。
〈救済〉のメーディウム ベンヤミン、アドルノ、クルーゲ 竹峰 義和/著より抜粋し引用。