mitsuhiro yamagiwa

6-7生存の非美学ーー剥離する表現(2)

感覚はそれを作る芸術家や参照されるモデル、あるいは作品を見る鑑賞者のうちにあるのでもなく、作品のマテリアルそのもののうちに自律的に存在する。

芸術家はマテリアルが感覚するようにする。ここで示されているのは、事実はたんにマテリアルの可滅性を示すのではなくーーそうだとすればマテリアルは事実において一瞬たりとも持ちこたえることはないだろうしその持続のなかに宿る感覚との圧着、混合を示しているということだ。マテリアルのなかで、感覚はいつ始まるのか。ドゥルーズが権利という次元に訴えかけるのは、事実においてこの問いに答えることができないからであり、それはなおさら感覚の事実上の存在を前提している。しかしそれは避けがたくマテリアルと混ざり合っており、そしてたちまち知覚や情動へと溶け出てしまう。そうして気付けば「腐ってるのはお前さん自身と、お前さんの母親と、お前さんのばあさんさ」という抽象的なコミュニケーションが幅をきかせ、芸術は作品を口実とした「オピニオン」や「マーケット」の場になるわけだ。

芸術が肉においてではなく家とともに始まり、また人間を待たず動物とともに始まるのは、「領土」において両者が交差するからだ。

 動物は手近なマテリアルを用いて領土を形成する。蜘蛛は糸によって、アズマヤドリは棒きれと青い木の実によって領土を形成し、尿の匂いや体表の模様もまた領土である。あるいは反対に、大陸を横断するバッタの群れ、海底を行進する蟹の列は脱領土化するが、このふたつの運動の二極化自体が家に芸術の開始を見ることによって生み出されている。家があるから感覚は持ちこたえることができ、また、家があるからカオスはフィルタリングされコスモスへと転換される。「感覚の存在は肉ではなく、コスモスの非人間的な諸力〔=ペルセプト〕、人間の非人間的な生成〔=アフェクト〕、そしてふたつを交換し調節し、風のように旋回させる両義的な家との合成態だ」。芸術は肉をフレーミングし、それと同時にフレームをはみ出すコスモスへと開かれる。芸術の開始はこの両義性の開始であり、感覚において合成されるのはこの両義性だ。

環境とはコードの集積であり、異なる環境は相互に貫きあい、その接面においてコードは恒常的な「コード変換」の状態にある。しかし生物学的地層が遺伝的コードの「脱コード化」としての表現の剥離によって特徴づけられたのと同じく、生物学的なレベルにおいて動物は環境における〈疎〉の出現によって定義される。

ひとつひとつの環境がコードをもち、環境のあいだではたえずコード変換がおこなわれるとしても、領土のほうは、逆になんからの脱コード化のレベルで成立するものと思われる。

 領土あるいは表現が環境あるいはコードから自立しているのは、「状況そのものが与えられなくても、状況との関係は与えられうるからであり、それは衝動そのものが与えられなくても衝動との関係は与えられうるのと同じである。〔内的〕衝動と〔外的〕状況が与えられた場合でも、関係自体は、関係づけられうるものから自立している」。

領土とは、まず同一種に属する二個体間の臨界的距離のことであり、その距離を表示することなのである。私のものとは、まず私がもつ距離のことだ。私には距離しかないのだ。私は人に触れてもらいたくないし、他人が私の領土に入ってくるなら、苦情を述べ、立て札を立てる。臨界的距離は表現の素材に由来するひとつの関係なのだ。

 たとえ戦争や圧倒が目的であったとしても、所有とは何よりもまず芸術的なものだ。芸術は何よりもまずポスター、あるいは立て札だからである。(…)表現的なものは所有的なものに先行し、表現の質、あるいは表現の素材は、必然的に所有に向かい、〈在ることl être〉よりも深いところに根ざしたある〈持つこと un avoir〉を形作る。それは質が一個の主体に帰属することを意味するのではなく、質がひとつの領土をかたどり、質をになったり、質を生産したりする主体にこの領土が帰属するということを意味するのだ。このような質はすなわち署名である。署名や固有名とは、すでに出来上がった主体の符号ではなく、それ自体で領土や領域を形作る符号である。署名は一個の人間を標示するものではなく、領土を形成する行き当たりばったりの行為である。(…)私が特定の色を好むのと、その色を自分の旗印や立て札にするのとは、同時に起こることだ。ある事物に自分の署名をするのと、ある土地に自分の旗を立てるのは同じことなのだ。

「合成」はあとになって芸術を定義するものとして登場する。しかし芸術論の文脈において「合成」は「共和」ではなく「感覚のブロック」あるいは「感覚の存在」と呼ばれる。

50 「合成、コンポジション、それこそが芸術のたったひとつの定義である」

感覚の生成とは、それによって何かもしくは誰かが(それ自身でありétre 続けながら)〈他に – 生成する〉行為である。

概念の生成は、共通の出来事それ自体が、現に存在するものから身を躱す行為である。概念の生成はひとつの絶対的な形態のうちに含まれた異質性 hétérogénéité であり、感覚の生成はひとつの表現のうちに入り込んだ他性 altéritéである。モニュメント〔としての芸術作品〕は、潜在的な出来事を現働化するのではなく、むしろ出来事を具体化し、あるいは受肉しているのだ。

概念も感覚も、存在 ある に還元されざる生成 なる をおこなう。しかし概念の生成が出来事をその実現されざる持ち分のもとへと反 – 実現し「脱受肉 désincarnation」させるのに対して、感覚の生成は出来事に肉を、あるいは身体を与えるフレームを接合する。哲学は現在から身を躱し、芸術は現在のうちに新たな肉の可能性を穿つ。

51「ところで、われわれが哲学的概念を定義するのは、やはり生成によってではないだろうか。それも〔芸術を定義するのと〕同じ言葉遣いで」。

美的な生存と〈真なることを言う=バレーシア〉の一致は、自身の生から異種形成的に剥がれ落ちるもののポジティビティを共通感覚的な一致において内面化するだけだ。生存が美的なのではない。生存から剥離するものの異種形成的な外在性が美的なのであり、「作品」という語にいまだ意味があるとしたらそこにしかないだろう。

表現はそれに直面する者を要請するからであり、そして、そこから眼を逸らし、書くことで「概念である限りでの可能世界としての出来事」を創造することを要請するからだ。

 この他者関係は何と呼ばれるべきだろうか。批評、クリティック。

『非美学』福尾匠/著