mitsuhiro yamagiwa

私たちはつねに考えを一致させているわけではない。

生成において必ず、ものはこれでありつつ、同時にその後にこれでなくなる。すなわち有、その後に無ということだ。ここにはいかなる矛盾も含まれない。
メイヤスー

反人間中心主義の思潮において対象はもはや、〈志向的対象〉や〈意識にとっての対象〉や〈志向的状態の相関物〉としては把握されない

対象を、人間という観察者のいない世界における、それ自体の存在として説明するという企てだ。観察的媒介なしに、どこにでも、対象が存在する。宇宙の存在する個々のものは、人間的なものであれ非人間的なものであれ、最も基礎的な(存在論的な)レベルにおける対象と見なされる。

オブジェクト指向の存在者はたんにフラットなだけではなく民主的であると言われうる。なぜなら宇宙における任意のものが対象として再評価され、全ての対象は平等に対象と見なされるからだ。

むしろ自体的な対象は、対象であることによって(そしてまさにそれのみによって)、ネットワークおよび集合体を形成する。

こうしたことは、現れを人間主体が主観化することよりも、むしろ現象の客体化にかかわっている。

フラットな存在論は《全ての意味の場は、それが意味の場である限り、互いに平等だ》と主張する。言い換えれば、フラットな存在論は、全ての対象を統一する支配的原理というアイデアを退けるのである。

超越的次元と認識論的相関性は決して排除し切れるものではない。なぜなら何かを知覚することは、それを何かとして知覚することだからだ。ここには、〈表象の対象〉を抜け出して〈対象の表象〉へ向かうという、反省的運動がある。

対象であることは、何を措いても、事実と状況のグローバルな意味によって規制された何かしらの意味の場に現れることである。

対象は決して心の中の存在ではない。むしろ対象は、私たちがそれについて考えたり語ったり量化したりするときに、有意味であるような何かなのだ。

〈無〉はガブリエルにとって限界概念であって、それは世界について私たちが考えんとするさいに垣間見られる何かである。

Ⅰ 論考

第1章 全てと無

グレアム・プリースト

引用は「無」は多義的だという事実を指摘するが、《こうした事実のために面白いダジャレが可能になる》という点は言うまでもない。

無が矛盾的であること

不安は無というものを露わにする。

第2章 全てというものはあるのか

マルクス・ガブリエル

テクストの与える情報は不完全であり、それは解釈によって完全化されるが、虚構的対象の存在は本質的にこうした〈解釈〉なるものと結びついている。それゆえ第二の対象は「解釈的対象」と呼びたい。この種の対象については、存在するとは、何らかの仕方で存在されることである。

意味は内包的対象だと言える。あるいは、意味は対象の呈示様式である、とも言える。

通常の対象にかんしては存在論と認識論を区別できるが、世界にかんしてはそれができない。世界と思考主体を別個のものと見なすことはできないのであり、世界について考えるさいに通常の対象と同じ仕方で考えるのは誤りである(逆に、主体から離れた対象へ客観的な思考が向けられるという典型的なケースでは、思考対象と思考主体を切り離す)ということは意味をもつ)。世界というものを捉えようとすれば必ず認識論的かつ意味論的な問題が生じる。そして「世界」という名辞を導入するだけでは、あるいは〈絶対的に全てのもの〉をドメインとしそこで無制限的量化を行なうだけでは、この問題は解決されないのである。

そもそもいくつかの意味の場は、自分自身のうちに現れる。

もし世界がただ加法的な全体にすぎないのであれば、複数の意味の場を選言的に結びつけることで世界が出来上がる。そしてこの場合、世界(これは選言で組み立てられたものだが)をひとつの全体と見なすべき根拠がわからなくなる。

世界は〈場としての世界〉と把握されている。ここで〈場としての世界〉の把握を「形而上学」と呼ぶことにしよう。

私の考えでは、世界の構造を記述しようとする形而上学はどれも深刻な欠点をもつ。

対象の絶対的な全体性を認めることなしに数学は行われうるーーこのことが知られてすでに久しい。

世界とはーー仮にそんなものがあったとしたらの話だがーー倫理的な探求によって認められる対象よりも多くの種類の対象を含むものだからだ。 自然科学や数学にまつわるこうした話は一般化できる。

《何が存在するか》をめぐる知識はどれも断片化されており、各々の知識は実在そのものの断片化された構造に対応しているのである。

ある意味の場に現れているものは、別の意味の場に現れず、存在は意味の場に相対的なものとなる。あらゆる意味の場に存在するものはない。なぜなら、すべての意味の場をひとつの地図の中に統一し、そのうえで可能世界意味論を適用しようとしても、それを首尾よく実行する方法がないからである。

対象が〈私たちが思考しうるもの〉だとしよう。この場合、対象のうちには、個別具体的に思考されうるもの(これは理解可能な指示句や正しい知覚を通じて知られる対象である)だけではなく、ただ一般的かつ抽象的にのみ思考されうるものもある(後者の対象のうちには、一般的かつ抽象的な呈示様式のもとでしか、私たちにとって思考できないものも含まれる)。とりわけ《それは私たちの認識圏を超えている》という点にしか知られないものも含まれる。かくして人間という有限の思考者には限られた概念セットしか与えられていないので、人間に把握可能な呈示様式だけを考えるのであれば、対象ではない対象があることになる。

観念的対象は《それがあること》を心に依存させている。これにたいして実在的対象のうちには、私たちに知られているものもあれば、私たちに決して知られない事実のうちに埋没しているものもある。

じっさい、極大的な観点、すなわちいかなる特定の視点も超えた客観的な視点はない。たしかに世界なるものが存在していたとすれば、こうした全体性は神の視点にふさわしい対象であったはずだ。とはいえ
世界は存在せず、それゆえ存在論的に絶対的な思考者もいないのである。

いかにして世界は決して何かの表象ではない、ということを知りうるのか。

第4章「全てについていくつか考えたこと」についていくつか考えたこと(ただし全てについて考えたわけではない)

マルクス・ガブリエル

世界が存在するか否かはア・プリオリに答えられる問いではない。

実在には、一切を取りまとめるひとつの焦点などない。

Ⅱ 対話

第8章 全て・ナンセンス・ウィトゲンシュタインをめぐる対話(ニ〇ニ一年八月一八日)

G

『論考』は上ることのできる梯子です。ただし、ひとが最上段に上らんとするならば、それが最上段でないことが気づかれる、そんな仕方の梯子です。上っても、上っても、行きつくところはつねに無。これがメタファーであることは言うまでもないですが、それによって必ずや区別すべき事柄が明らかになります。たとえ「存在することは何かしらの意味の場に現れることだ」や「全てのものは、一方で存在し、他方で存在しない」などの主張が何かしらの地点で無意味に転じるとしても、かかる崩壊は究極的な地点へ至って初めて生じます。私はウィトゲンシュタインが《全ては崩壊する》と述べていると解しますが、この捉え方が正しければ、彼の言っていることにはさまざまな矛盾が含まれるでしょう。 

第9章 無をめぐる対話(ニ〇ニ一年八月二〇日)

P

すなわち一方で、〈無いこと〉は何かしらの対象である(なぜならわれわれがそれについて考えることができるので)。あなたの表現で言えば、〈無いこと〉は一定の意味の場における対象だ、となると思う(そしてここでの意味の場はおそらく私の文章である)。他方で〈無いこと〉は、言ってみれば、全ての対象が除去されたさいに残る何かである。それゆえそれは対象でない。かくして〈無いこと〉はパラドックスを伴う対象だと言える。

無を〈全てのものを取り去ったときに残るもの〉と定めよう。無とは、こうした除去の後に残るものである。したがって無は対象ではありえない。なぜならそこでは一切の対象が取り除かれているからだ。

G

私は《私の立場では、無いことは、私の言う意味の「世界」の不在と結びつく》と述べましたが、これがシェリングの立場が私の語彙で言わんとすることです。

(少なくとも一定の条件が満たされるならば)そのひとが全包括的な場に到達しようとするとき、そこで経験されるのは《そうした場は無い》という事態です。私たちは全ての個別的な場を把握しようと努める。

Ⅲ 後記

第10章 全てを超越すること

グレゴリー・モス

無は、必然的に、全てに含まれながら、同時に全てを超える。さらに言えば、この矛盾の由来は、まさに全ての本性(すなわち全てと無の融合というその本性)にある。

全ては無限な対象として把握されうるが、こう把握されるさい必ず全ては限界をもつ(なぜなら把握することはつねに一種の限界づけだからだ)。

〈存在する〉や〈対象である〉という性質は、対象たちを統一する原理である以外にない。それゆえこれらの性質は決して対象のあいだに差異を置き入れるものではない。

対象の根拠としての無は絶対的なものではない。とはいえ同時に無は全てを包括するものであり、絶対的なものである。かくして無は〈根拠〉と〈根拠づけられるもの〉の区別を完全に超越する。シェリングやベーメの言葉づかいを借りて言えば、無は無底(無根拠・無地盤)なのである。すなわち、無は決して何かしらの対立における一方の位置をとったりはせず、むしろ全てを包括するものであり、それでもってあらゆる対立を超越する。
無は全てから区別できず、それゆえ無は無差別である。言い換えれば無はいかなる差異にも関与せず、全てのうちに等しく浸透している。

じっさい、存在をどれほど精査しても、この存在者とあの存在者を区別する差異化の特質がそのうちに見出されることはない。ガブリエルにおいて「本来的な性質」とは「ひとつのドメインにおいて何かしらの対象を別のものから区別することを可能にする」ものであった。〈あること〉によって何かしらの個体が他のものから区別されることがないのは明らかである。それゆえ〈あること〉はガブリエルの意味で本来的な性質ではない。

存在は意味の場の性質である。より正確には、それは〈対象〉と〈それが存在するところの意味の場〉とのあいだの関係である。すなわち、

対象は、決して剥き出しでは、存在することがない。対象は決して絶対的なものではない。むしろそれは関係項としてのみ存在する。対象は自らのドメインに相対的に存在するのであって、存在することはそうした対象を含むドメインの性質なのである。

要するに、〈存在〉を相対的なものと定めるガブリエルの定義は、さまざまな相対的存在領域からの(すなわちわれわれに与えられる存在からの)帰納的一般化を通じて得られる。最も単純化していえば〈存在すること〉は〈存在するもの〉からの一般化を通じて定義される。
 だがこれはいかなる一般化だろうか。

われわれの知識は制限されており、まさにそのためにわれわれの存在論的な主張はさらなる経験によって棄却されうるからだ。

「存在することは何かしらの意味の場に現れれことだ」という定義はつねに、暗黙的に、「われわれの知る限り」という但し書きによって制限されている。「意味の場に現れること」は、さまざまな可能な存在条件のうちの、ローカルなひとつに過ぎない。

われわれが証明できるのは、われわれの知識に相対的な事柄だけだ。それゆえせいぜい、世界(という論理的に可能な対象)は「意味の場に現れる」というローカルな存在条件のもとでは決して存在できない、と言いうるにとどまる。

すなわち、数学や経験科学の領域を超えたところから、われわれは多くの知識をえている。また、世界にかんする前存在論的な経験は決して無謬の真理を知らせるものではなく、むしろ哲学がそれを覆すことがある(これがときに哲学がひとを驚かせる理由だ)。じっさい前存在論的な経験は、しばしば、体験者自身の理解を超える。こうした事実が示しているのは、歴史としての記録された、さまざまな宗教的経験である。
 さて、ガブリエルの〈存在〉の定義が帰納的な根拠のうえに成り立つ以上、それは棄却の可能性に開かれている。

思考することや行為することは宗教の本質ではない。むしろ直観と感覚こそがそれだ。宗教は宇宙を直観することを目指す。
シュライエルマッハー

《存在論をまなぶ前に得られる経験にはどんなものがあるか》を基準にして哲学的主張の正しさを測ること、こうした道行きは素朴であって、それについて懸念が抱かれるのは当然だ。とくに、先行する認識が哲学の経験によって揺るがされている場合には、注意が必要である。〈存在〉がいかなる仕方で定義されようとも、たんに前存在論的な経験に合致するだけでは十分でない。

絶対的な無さは、出会われるべき、非対象的な不在である。

すなわち、世界は概念的な規定を超越しており、非概念的で直接的なやり方でのみアクセスされうる、と。じつに神秘主義は、概念や判断や命題によって世界を把握することを目指すことはせず、むしろ論証を行ないつつもその論証を超越し、それによって非概念的な仕方で存在を体験する。神秘主義にはさまざまなタイプがあるが、そのうちには世界を〈神秘的な直観の対象〉と見なすものもある。

神秘主義者は、無意味に語ることによって、却って整合的な見解を提示する。なぜならそれこそが彼女らのテーゼと両立する語り方だからだ。神秘主義者は決して自らが語らんとするところを有意味に語ることができない。それゆえ彼女らが為しうるのは示すことだけだ。すなわち、無意味な語りを行なうことで、そして世界にかんする語りを全て無意味のうちに落とし込むことで、自らが語っていることが無意味であることを示すのである。じっさい、世界にかんする語りを全て無意味のうちに落とし込むことによってのみ、神秘主義者は自分の語ることの真理を示しうる。なぜならその語らんとするところは決して有意味に語りえないからである。

カブリエルは世界にかんして何ひとつ真なことを主張できない。それゆえ「世界は存在しない」という真理は語りえぬもの以外の何ものでもない。世界が存在しないことが理解されれば、われわれは世界の〈無いこと〉と直面することになる。世界の無性とのこの神秘的な出会いが行なわれるのはただ次の場合だけだ。すなわちそれは《世界にかんする全ての言説は必ずや無意味さや誤りに陥る》と認識される場合である。この理由のために、世界の不在の洞察へ適用される種類の真理はいかなる悟性的な意味ももたない。世界の不在の「真理」は、不可避的に、〈暴露としての真理〉というハイデガーの把握に近いものになる。

もし《世界は存在しない》というのが事実であるとすれば、それは異なる意味の事実だろう。すなわち、事実とは対象にかんして真となる、といった条件のもとにない事実概念である。

対象が対象であるためには、その対象は無に依存せず、無から自立しておらねばならないが、それゆえその対象は空であってはならないーーとはいえ、対象それぞれ自体は無から区別されえないので、対象は自立性を欠き、それゆえそれは空である、と。

もちろん何かしらの根拠によって《或る特定の存在者(或る個別的対象)が、全てのもののメレオロジー的融合において、存在と無のあいだに差異を与える》と言われうるかもしれない。しかし、この存在者はすでにして何かしらの対象であろうから、そして加えてこの存在者はそれ自体でーー定義的にーー無ではないであろうから、その存在者によって問題の区別が説明されるというよりも、その存在者は問題の区別を前提していると言われるべきかもしれない。

「宇宙」という語は、私の解釈では、「自然」というひとつの対象でなく、それ以上のものを指す。すなわち「宇宙」の指すものは「全体」や「世界」といったものに近い。

ガブリエルは《ひとが自分は世界について考えていると思っているさい、そのひとはそのひと自身の経験を理解していない》と論じるが、それと並んで彼は《ひとが自己と世界との合一を体験していると思っているとき、そのひとは自己の神秘的体験を誤解している》と論じることもできる。とはいえ、主観性の非双性といった、いくつかの証拠を、説明によって消し去ることはできない(それゆえガブリエルはこうした証拠を受け入れている)。

結果として、ガブリエルにおいて、必ずや世界は論理的に可能であると同時に思考不可能であることになる、という点は強調したい。そして世界の思考不可能性は彼の存在論的探究からの帰結である。

あることは、あることの彼方にあるように思われる。

絶対的真矛盾主義は曖昧さのない立場ではない。一方でこの立場は《絶対的なものは矛盾的な真理であり、絶対的なものは合理的に思考可能である》というものだと解されうる。他方でこの立場は《絶対的な矛盾の真理は概念的な把握を超えている》というものだと解されうる

『全てと無』マルクス・ガブリエル・グレアム・プリースト、グレゴリー・モス/著、山口 尚/訳