「非現在」とは、かつてなじみ深かった日常の現実を解釈する方法が、近年になって奇妙で異世界的なものへと変質したという不気味な感覚を私なりに命名したものだ。それも、この変化に対してほとんど誰も驚かず、「新しい異常」として受け入れるほか選択肢がないかのようだ。さらに、「非現在」は、絶え間なく繰り返される危機的状態を予告しており、それはもはや通常の状態に回帰する約束を(嘘でも)することはない。
彼は「秘密」(SECRECY)と大文字で強調しながら、「秘密がこの世界を支配しており、その最たるものが支配の秘密である」と述べる。さらに、支配層のエリートたちは自らがこの秘密を握っていると思い込んでいるが、実際にはその思い込み自体、欺瞞の上に欺瞞が重なる背後に隠れた、壮大な陰謀の別のレベルに過ぎないと主張する。「無知は、利用されるためにのみ生み出される」。
二一世紀初頭の私たちの集団的経験は、映画『マトリックス』のようにトップダウンの策略によって決定されるのではなく、インタラクティブでネットワーク化された経済のなかでつくり出されており、そのスペクタクルの構造自体を私たちが再生産しているのだ。この構造は、資本の価値の否定できない源である人間労働の、テンポ、リズム、感覚的な鼓動に呼応して絶えず変化する。
LLM(大規模言語モデル)と生成AIはどちらも、真にランダムなアウトプットや、根本的に新しい認知構造を生成することはできない。代わりに、スペクタクル化された資本主義のように、AIは洗練されたパターン認識と再結合システムとして機能し、繰り返しを通じて現在のシステムを継続的に再生産しながら、時間自体の商品化をもたらす。
非常に問題なのは、もし「非現在」が実際に私たちの共通の現実になっているとしたら、人間社会はすでに、極度に個別化されたデータポイント、ジル・ドゥルーズの言葉を借りれば、今日の私たちの断片化された主観性を表す「分人」(dividuals)の塊で構成された、AI のような時代精神で成り立っていると推論できてしまうことだ。
私の見るところ、左翼寄りのアーティストは、自らが用いる視覚的な比喩や戦術が進歩的な闘争の系譜の一部であることを認識しているものの、彼らの多くにとって、その歴史の詳細を正確に説明することは困難だ(本書の目的のひとつは、この説明不足を補うことである)。
左翼のアクティビスト・アーティストたちは、連帯と抵抗の可能性を広げるオープンエンドな政治的想像力を駆使して、このアーカイブを掘り起こそうと努めるのが常である。一方、右翼のアクティビストの表現は、過去を従うべきものとして描く傾向がある。
アクティビスト・アートとは、適切にマッピング可能な美術史的文化現象とは対照的に、グリッチやコーデイングエラーのようなものなのだ。
序文
アクティビストとしてのアーティスト、昔といま
一九八〇年代初頭にニューヨークを拠点として活動したアーティスト・コレクティブ、〈ポリティカル・アート・ドキュメンテーション/ディストリビューション〉(PAD/D)がある。私がかつて所属していたこのグループは、「美術館やギャラリーといったアートワールドの構造のなかでは、〔自分たちは〕進歩の手段としての役割を果たすことはできない。それよりも、流通経済の新しい形態を、アートと同様に開発しなければならない」と強く主張した。私たちの究極の目標は、自らのアーティストとしてのスキルを使って、世界中の急進的で脱植民地主義の解放運動を支援することだった。
NFTを占拠せよ、ただミントするだけでなく
イメージやその他のコンテンツを再配置、再利用、再活性化することは、今日、現代アート・アクティビズムの中心であり、その表現の情報源には、膨大で、ほとんどお化けのような素材のアーカイブが利用されているように見える。
今回の革命
アクティビスト・アートがどのような年代順の記録を提供したとしても、それはせいぜい過去の介入、実験、反復、妥協、そして小さな勝利や完全な失敗の、断片的でにぎやかな貯蔵庫だと言うのが正確だろう。私はこれを、余剰アーカイブまたは幽霊アーカイブと呼ぶことにしよう。そこにアクセスするときは、作品やムーブメント、作家についての形式的、図像的、伝記的属性を扱う従来の美術史の方法とは異なり、再生、再目的化、再活性化という推測を要するプロセスが求められる。
完全な社会的スペクタクルの完全な批判
完全に商品化され、疎外された気分にさせられる現実を治療する手段として提案されたのは、完全な脱商品化と、あらゆる形態の抑圧を全世界で終わらせることーーそれは、病状の深さに匹敵する大きな領域に及ぶ解決策である。
二つの支配形態ーー西側の民営型資本主義と、〈SI〉が言うところのソ連における中央集権の国家管理型資本主義は、どちらも生産性と消費を中断なく維持するために、大衆向けの祭典を大規模に組織し、余暇を支配し、さらには人間の欲望そのものにまで侵入しようとしていたのである。
ランシエールは抵抗や対立を、スペクタクル自体のなかでの局所的な裂け目や折り目として結論づけている。
この暗い亀裂や隙間(厳密に言えば特定の場所を指しているわけではないか)において、発言を許されない人々、比喩的、感覚的、あるいは身体的に自らの存在を可視化することを禁じられた人たちが、システムの限界をシステムの否定で示すようになる。これらの抵抗的な未端勢力が既存の社会秩序に対して突きつけるリスクを管理する役割は、「警察」に委ねられている。この「警察」とはランシエール独自の用語で、包摂と排除に関する法的な規則や慣習の総体を意味している。
スペクタクルを拒絶するためには、それによって人質にとられているもの、つまり想像力そのものを解放する方法が必要となる。〈SI〉は、スペクタクル消費主義の美的体制(aestheticined regime)が私たちに対して用いる、私たち自身の欲望の力を、まず盗用し、次にそれを破壊する、あるいは乗っ取るという二段階のプロセスを考案した。
一九六八年五月
マルクーゼの「そこにあるものに対する」抗議という全否定のモデルは、まさしく芸術であった。とりわけ、これらの非協調主義の反乱は、主流の政権を攻撃目標にするとともに従来の左翼政党や労働組合も標的にした。
分派と〈SI〉の影
〈SI〉は「明確に構造化された二重の拒絶のプロセスを呼び起こした。それは、アートを日常生活から切り離すことの拒絶と、資本主義の生産と統治によってこれらの相反するエネルギーが再び融合することの拒絶である」。
今日の、大部分ではなくとも多くのアクティビストにとって、ランシェールが主張するように、否定と断絶の空間こそが、急進的な政治がいまだ成長しうる、唯一の想像可能なカウンター・トポグラフィーである。システムとそのスペクタクルをすべて破壊することは不可能と考えられるが、〈SI〉のプロジェクトの半分、つまり反スペクタクルの否定的、批判的な部分は生き残っているかのようだ。その一方で、完全に解放された創造力から生まれる完全に異なる社会、経済、建築、都市生活という彼らの根本的なビジョンは、忘れられるか、急進的なロマンティシズムとして片づけられてしまった。しかし、それから半世紀後に、一見勝利したような資本主義に特有の美的全体性は、しばしば逆説的に断片化しているように見える。もしそれがアクティビズムのアートの、そしてアートのアクティビズムの新しい反復のための、土台をまさに用意しているとしたらどうだろう?
3 アヴァンギャルド・アーティストの集い
人々のためのアート(?)
ダダとシュルレアリスムの登場で、ただひとつの真の芸術は反芸術であり、真正の芸術作品は自己否定であるということが明らかになった。ダダとシュルレアリスムはそれぞれ芸術をその限界を超えるまで駆り立て、芸術の自己超越を実現した。[…]彼ら[〈SI〉]は、いまやダダとシュルレアリスムを踏み越えるときが到来したと表明したのだ。
5 一九六八年とその後ーー幽霊 ファントム アーカイブと社会運動文化
物事は明確になる、まるで言語のように。そしてアートは、コミュニティと通じ合うための力強いツールだ。
ーーエモリー・ダグラス
社会運動は、短命の視覚文化を大量に生み出す。例を挙げれば、フライヤー、パンフレット、落書き、ステンシル、横断幕、ポスターなどのグラフィックスから、キャンペーン・メッセージを増強するパフォーマンスイベントやページェント、さらには立法を目指す運動、マスメディアに向けた大衆抗議行動、演出された「フェイク」のダイ・イン(たとえば核兵器の爆発による死者を演じる)、ボイコット、大量検挙等々。そういった抗議美学は、戦後の黒人公民権、同性愛者の権利、女性解放の草の根キャンペーン、原子力反対運動とともに発展し、これら多様な文化形態はその後も引き続き再発見、再利用、リサイクルされている。あたかも人目につかない抗議美学の貯蔵庫から引き出されているかのようだ。
あり余るほど豊富な社会運動の視覚的、物質的文化が、主流の美術機関でめったに展示されない理由のひとつは、それが「ファイン・アート」という高尚なカテゴリーそのものを無視する傾向を持つからである。主流の機関はお返しに草の根のプロテスト・アートを退けるが、それはかえって、社会運動文化が真の政治変革に対して、深く、緊急で、妥協のない忠誠を示していることを保証する結果になっている。おそらく最も重要なのは、国家当局、政党、労働組合の信頼性が損なわれ、政治的に無力になっているときに、社会運動のさまざまな主体が今日の政治変革のデフォルトを示すようになったことである。この状況はいま左翼、右翼の両方を支配している心情を反映している。
便宜性
社会運動の文化とイメージはほとんどの場合、集団的に、ときには素人や独学の職人によってつくられ、通常その成果には作者の名前は示されないーーこれは後々の正確な調査や保存を妨げる重大な欠落部分である。まさにこれらの特徴は、ファイン・アートの伝統や、偉大な映画監督や天才に当てはまる流儀とは正反対だ。さらに、こうして便宜的につくられたものは容易に隅に追いやられてしまう。大衆運動が成功しても失敗しても、そのイメージは視覚からも記憶からも消えていく。
6 一九七〇年代ーーアートにおけるアクティビスト的転回
一九六〇年代の一時期、コンセプチュアリズムは現代アートを資本主義依存と収益のためのオブジェクト制作から引き離すことができるように思われた。乾いたテキストによる声明、目に見えない彫刻、教訓的な読書室、社会的ゲーム理論などは、この時期に始まった多くの「非物質化された」アート形態の一部だ。しかし、早くも一九七三年、批評家ルーシー・リパードは、「コンセプチュアル・アートが全面的な商業化、破壊的に進歩的なモダニズムのアプローチを回避できるだろうという期待は、ほとんど根拠のないものだった」と見ていた。このような理解は、一九七〇年代の政治意識の高いアーティストが「先進芸術」を捨て、アートワールドの「異議を商品化する」プロセスを打ち破るための方法を探していたことの説明になるかもしれない。異議の商品化とは、のちにトーマス・フランクが、資本主義のスペクタクルが反抗的なカウンターカルチャーを流用し、拡大を続けていることを冷徹に表現した言葉だ。
7 一九八〇年代ーー新自由主義的転回に反応するアーティスト
歴史家マイケル・デニングによれば、第二次世界大戦直後、勝利を収めたアメリカ人は文化がすべての人々にアクセス可能なものであることを理解し始めた。つまり、文化はもはや富裕層や国家、企業メディアだけのものではなく、広範囲に及ぶ社会的現実であり、急速に政治的な力と勢いを増しつつあった。「一九五〇年代に入って突然、文化はフォードの車のように大量生産されていることに誰もが気づいた。大衆は文化を所有し、文化は大衆を手に入れた」と彼は書いている。資本主義市場の拡大で北半球の消費者人口はますます拡大する一方、植民地主義と闘う人々や社会主義圏の東側の人々も、しばしば非公式の影の経済を通じて、積極的に市場に参加するよう徐々に誘い込まれた。しかし同時に、文化政治は一九六〇年代の若者によるカウンターカルチャーの台頭をはじめ、労働者階級や有色人種による音楽、文学、美術への関心が高まったことでも測ることができるとデニングは指摘している。労働者階級や有色人種のメディアでの知名度や商業的成功は、その影響を抑えようとする不器用な国家の試みによって妨げられるのではなく、むしろ高まることが多かった。
文化的反乱は、表現の送電網と精神の発電所を掌握しなければならない。知性は自意識を持ち、自らの力を認識し、そして地球規模で、もはや不適切な機能を超越し、あえて自らのカを行使しなければならない。歴史は国家政府を転覆させるのではなく、その側面から包囲するだろう。文化的反乱は新しい秩序の必要不可欠な土台、情熱的な下部構造である。
アクティビズムは、階級運動や脱植民地化運動といった伝統的イデオロギー形態とは対照的に、自律性と自発性を強調する運動を指す傾向があり、通常、特定の政党やイデオロギーに基づく立場と結びついてはいない。
8 一九九〇年代ーータクティカル・メディアとしてのシチュアシオニスムの再利用
デジタル技術は、途方もなく幅広い普通の人々が創造的プロセスの一部になることを可能にするかもしれない。
ーーローレンス・レッシグ
アヴァンギャルドの復活?
ロヴィンクとガルシアの言葉を借りれば、この弱いかたちの抵抗は構成主義よりもダダに近く、「なにを勝ちとってもそれを保持することはない」ために政治的基盤を持たない。また、それは「飛行している」間に、場面に応じてのみ実現されるので、「自らのイメージを持たない」。
9 再び街頭へーータクティカル・メディアから
「ウォール街を占拠せよ」(二〇一一年)まで
グローバリゼーションに対する〔左翼の〕抵抗運動が、ボーダーレスでありながらポスト資本主義の世界を望んだのに対し、新しい右傾化した反グローバリストたちは、きわめて国家主義的な資本主義を支持し、民族、宗教、肌の色、さらに二〇二〇年代にはウイルス感染を根拠に、想像上の敵から外見上国を守るために国境の再確立を望んだ。一方で、サイバースペースという未開の荒野は、アルカイダが実際に電子ジハード戦士の一部をリクルートしていたのだが、既存の法規制を強化する米国愛国者法のような法律によってますます封じ込められた。
抵抗は願望の真空を嫌う
アーティストたちはまた、ほかの半失業者や失業者が直面しているのと同じ危険な状況を認識し始めた。この政治的目覚めの瞬間が、本書の誕生につながる現在のアート・アクティビズムの噴出の一因であることは間違いない。
10 制度批判か、文化の廃絶か?
文明の記録のうち、野蛮の記録でないものはひとつとして存在しない。そして、このような記録が野蛮から自由でないのと同じように、それが所有者から所有者へと伝えられる方法もまた、野蛮に染まっている。
ーーヴァルター・ベンヤミン
アート・アクティビストは、役に立ちたい、世界を変えたい、世界をよりよい場所にしたいと思っているが、同時に、芸術家であることをやめたいとは思っていない。
ーーボリス・グロイス
これはあなたの祖父母の制度批判ではない
もしこれが制度批判の復活であるならば、それは美術史の教訓を実に斬新な方法で応用していることになる。美術館の空間を美的に解体したり、ハイカルチャーのイデオロギー的外装を剥がしたりする展示プロジェクトを一九六〇・七〇年代のマイケル・アッシャー、ダニエル・ビュレン、ハンス・ハーケ、また一九八〇・九〇年代のアンドレア・フレイザーやフレッド・ウィルソンといった先駆者たちが行ったようにーーつくり出すのではなく、現代のアクティビスト・アートの変種は、美術館業界の内部運営の具体的な環境を直接変革することを目指している。そこには、アートワールドの論理を再生産する「ダークマター」として不安定な立場で働く人々の運命も含まれる。
美学/文化政治の全体化がもたらす政治的パラドックス
このアーカイブは、民主主義を支持し、人種差別に反対するアクティビストだけでなく、それとは正反対の、たとえば国家主義や愛国主義を装ってファシズムを新たに蘇らせようとする世界的な動きなど、反動的な政治勢力にも開放されている。
11 二〇一六年とその後ーー冬が近づいている/冬はもうここに
可視性は政治である
「出現することは重要である」とニコラス・ミルゾエフは書き、「可視性を獲得することが現れの政治を生み出す」というジャック・ランシェールの主張を再解釈しているーーこれは、白人支配体制の長い歴史のなかでの格闘であり、そこでは黒い身体とアフリカ系アメリカ人やほかの有色人種を表現したものは、真っ先に視覚的、身体的なコントロールの対象と見なされてきた。
BLM に触発された街頭アクションは、ときに厳粛に、ときに祝祭的に、公然とそれを不服従の表現へと変換し、まさに正反対のことを行っている。この運動の抗議美学は、非白人を秩序立てて管理することに依存した、何世紀にもわたる規律社会のものの見方、つまりイメージと身体的存在を監視することによって強化されるものの見方を、明確に拒絶している。そして、一度完全に可視化されると、黒であることを再び隠すことは不可能になる。それは可視性そのものを再定義するのだ。
13 アクティビストとしての現代アーティスト
ーー推測、憑在論、未完の結論
歴史は明日があるからこそ存在する。
ーーヒト・シュタイエル
アーティストは、空間の美的な特性だけを考えるのではなく、我々の上で資本主義の安定を支えている天空のような新自由主義の足場を倒すことを目指すことができる。
ーーシェリーン・ロドリゲス
アートワールドの経済的・政治的矛盾は隠しきれなくなっている。それは目常生活のあらゆるレベルで、金銭化が明白になっているのと同様だ。ハイカルチャーが内包する美的特性は、いまではごくありふれた属性として、多くのデータポイント、素早く転売できる抽象画、急騰するNFTのかたちで現れている。
「剥き出しのアート」と表裏一体にある現象は日常生活の無条件な美化であり、シチュアシオニストたちが恐れた大衆スペクタクルが、並外れた規模に拡大している。人々の生活が、オンライン、オフラインの両方で、商品、ニュース、ミーム、ブランドの終わりなき視覚的ページェントとなるとき、抵抗の地平線そのものは、消滅はしなくとも、根本的に変容する。地勢の変化に対応して、数行の更新、新たな戦略、アーカイブの回復、そして敵対者に関する厳密な判断が求められる。
進歩的アート・アクティビズムのレガシーは、あえて言うなら、極右やその他の権威主義的抑圧勢力がでっち上げた策略から距離を置いている。そうした勢力は、秩序と美徳を装いながら、白人少数派の支配や歴史的には後退した専制主義の形態を維持しようとしているのだ。
抗議の美学
激しい大衆運動のなかで集団的に振りつけられた身体、大胆で生々しい抗議のイメージ、絶叫型のテキスト、感電したような社会空間、そして音響の爆発ーーこのような反対派の美学が高度にスペクタクル化された社会に解き放つ力に、知識人、理論家、そして学者たちが気づかないはずはなかった。
剥き出しのアート
すべての事象の完全な美化は、執拗な繰り返しのなかで、単に私たちとともにあるのではなく、すでに私たちそのものなのだ。このプロセスは非常に包括的に見えるため、資本主義のヘゲモニーが見事なデザインプロジェクトに変化した、と表現するのが最も適切かもしれない。
非現在における廃絶のアート
システムは、実際に価値を引き出すことよりも、私たちが時間を「費やすこと」や、私たちが消費を続けられるようにすることに執着しているかのようだった。おそらく驚くようなことではないが、パンデミックが襲った後、米国では何百万人もの人々が離職した。マスメディアはこれを、マルクーゼが一九六〇年代に唱えた「大いなる拒絶」(Great Refusel)になぞらえ、その不気味な二一世紀版であるかのように、「大退職時代」(Great Resignation)と呼んだ。しかし今回の撤退は、明らかに政治的・カウンターカルチャー的なジェスチャーというより、問題自体の内部への撤退に見える。まるで行き場がほかになく、非現在に戻るほかないかのように。
理論家ブレイク・スティムソンは、次のように主張する。かつて「万国の労働者よ、団結せよ!」というスローガンがその時代に驚くべき効果を上げたとすれば、今日「我々を導く支配的な神話は、気が滅入るかもしれないが、新たな反民主主義の民族ナショナリズムであり、その拡大の手段はインターネットによってあおられる共同体主義である」。皮肉なことに、グリーンバーグ流フォーマリズムの抽象表現という古風なエリートの思想的基地は、ポスト資本主義の解放の結果出現するはずだった理想化された普遍的人間主体が、そこに逃げ込む避難所のようになる。ほとんどそうなる、完全にではないにしても。
アートは美しさでも目新しさでもなくなり、効能と攪乱になるだろう。達成されたアート作品とは、アーティストが行動する環境のなかで、解放途上の国におけるテロ攻撃に匹敵するインパクトを与えるものとなるだろう。
『アクティビズムのアート/アートのアクティビズム 「抵抗する表現」の軌跡と行方』 グレゴリー・ショレット=著、秋葉美知子=訳