・私たちの感覚や知覚、あるいは動作によって関与するどんな事象の継続も、一連の事象がたびたび同様にくり返すならば、徐々に意識の領域から消えていくのです。けれどもそのようなくり返しの際に、その誘因条件もしくは環境条件が、これまでの影響の仕方と異なってきますと、これは即座にまた意識の領域にはいり込んできます。ただその場合にも、新しい影響を以前のものと区別し、そのために常に「新たな考え」を必要とする意識の領域にはいり込んでくるものは、ともかくまずはその変異もしくは「異同」のみに限られています。
・意識の薄らぎは、私たちの精神生活全般におけるきわめて重要なことなのです。それはまさにくり返しによって習熟していく過程に、その基盤を置くものであります。
・[状況の]異同や、それに対する反応の変化や選択の枝別れなどが、次から次へと測り知れないほどに積み重ねられていくのですが、もっとも新しいものだけが意識の領域にとどまっているのです。このことに限って言うならば、生命体は依然として、学習し練習を積む段階にあると言ってよいでしょう。
・新しい状況や新たな反応は即座に意識の光に照らされるのですが、他方過去に習熟したものはそうならないということ、それだけは確かな事実なのであります。
・この一般化こそが、最初に提示した問題を明らかにしてくれるものなのですから、はたしてどな物質的事象が意識と結びついているのか、また意識を伴っているのか、そしてそうでないものは何なのか、それが問題でありました。
・ただしそれは、器官が徐々にまわりの環境と相互作用をし、状況の変化に対して機能を働かせ、またそれから影響を受け、習練を積み、環境によって特別な仕方で変容をとげるという場合に限ってのことであります。
・それはすなわち、変化する環境に対する経験と私たちが呼んでいるものによって、自らを適応させていくことなのです。
・つまり意識性は、生命体の学習と結びついており、これがもつ能力は無意識なものだということなのです。
『精神と物質 第一章 意識の物理的な基盤』エルヴィン・シュレーディンガー/著、中村量空/訳
・構想力が自身の限界に直面すること、それは「自然の無限性としての理念」への自身の不適合に直面することであり、美がそうであったように崇高も表象の主観的な様式に関わっている。「すり替え」によってその主観的・反省的判断が対象に帰せられるのだ。
・そこで能力の限界は越権による錯覚を防ぐためのものではなく踏み越えられるべきものになり、不一致のただなかから一致が生み出される。
・中心なきイメージの宇宙のなかに私という中心を生み出す引き算は、「関心」にもとづいてなされる。眼が可視光線を枠づけ るように知覚は限定によって生まれ、世界は私の行動に資するようなかたちで間引かれていく。これはつまるところ生物の進化 における神経系の発達をモデルとした考えであり、そこでは世界が狭くなることと行動が複雑になることが相関している。
・私の知覚は極めて部分的であるがゆえに豊かであり、行動には意識的な選択がともなう。選択の座として私が「内部」然とし てあるのもこの進化の帰結であり、この自然史的な帰結を論理的な前提にすり替えることに実在論・観念論の誤りがある。 つまり主観性は前提とされるのではなく、その発生が問題となる。知覚表象と知覚対象は同じイメージであるにもかかわらず、 引き算によってそこに内部/外部の分割が生まれる。
・「まずイメージの総体〔としての物質的宇宙〕があり、その総体のなかに「行動の中心」が存在して、関心を引くイメージはそ の中心に対して自分の姿を反射させる。こうして〔意識的な〕知覚は生まれ、行動の準備は整えられる。私の身体とはこれらの 中心に浮かび上がってくるものであり、私の人格はこれらの行動が帰される存在のことである。このように表象の周縁から中心 へと進むなら、事態は明快になる」。
・〈知覚対象が私の外にあって、知覚表象が私の内にある〉のではなく、〈知覚があるところに私がある〉のだ。
・知覚は身体に先立つということだ。眼が光を知覚可能にするのではなく光=知覚が眼を作る。
『非美学』福尾匠/著
« 共有なき共感