〈複視的な感覚〉
同じ「存在」に対し、別の認識が在ること


・時間の流れそのものを「見る」ことはできない。
・「温度」という目には見えない差異を視覚化する
・同一性と差異の問題
・現在から現在へ
1977 5/17〜22
アート・コア ギャラリーの副タイトル
・同じ図形でも、実際に見えているものと認識の間では差異があることを示している


・不可視の状態から形を認識する
・カンヴァスに対し、塗られた面が傾いて見える。カンヴァスの下地を残すことで、カンヴァスと色面の「存在」を同時に出現させようとしている
木下佳通代の作品は、表面のもつ機能の多義性に根さしている。
よく知られているように、今世紀の美術において、この表面の多義的な機能に眼を向けた最初は、立体派の時期のピカソやブラックであった。彼らはパピエ・コレの手法によって同一のキャンバスの表面は描かれる場であると同時に、壁紙や新聞紙などが貼られる平面であるというように、機能の二重性を明らかにしたからである。
しかし、表面の多義性は、描くことと貼ることという極端に異質な行為の共存でなく、一見するとそう見えないやり方によっても古くから活用されてきたのである。描くことと書くこと、つまり絵と文字の共存がぞれである。
ヨーロッパでも東洋でも、絵と文字の共存の歴史は古い。ついでにいえば、
パピエ・コレの手法をうみだした立体派の絵画が、また絵と文字の共存を復活させたことは偶然ではないだろう。

木下佳通代が関心を寄せたのは、表面を、一方では写真による映像の場であると同時に、他方では線をひく、つまりドローイングの描かれる面として二義的に把握することであった。いうまでもなく、写真の映像は現実の光景の転換によるイリュージョンであるのに対し、ドローイングは平面のうえでつくりだされる別種のイリュージョンである。ドローイングは写真を侵犯し、写真はまたドローイングを規制する。こうして第三のイリュージョンが形成される。これが木下佳通代の作品である。このドローイングがエアーブラシによる彩色に変わっても、事情はまったく変わらない。木下佳通代のこうした方法による作品において、写真による映像とドローイングや彩色の関係が文字と絵の関係に似ていることに注目したい。というのも、写真は彼女にとって外から与えられたものという性格をもつのに対し、線をひくのは主体的な行為だからである。つまり、写真は今日われわれにとって言語(=文字)に近い媒体であるのに対し・ドローイングは絵画に近い。その結果、彼女の作品は構造的には絵と文字の共存に似ているのである。因にいえば、この言語化している写真をもっとも絵画へひき戻そうとしたのがハイパーリアリズムであった。
描かれる面としての紙面と物質としての紙という二重性も、彼女の作品に示されているもう一つの二重性である。これがドローイングと写真の二重性のヴァリエイションであることは容易に推測される筈である。
中原佑介


