われわれはわれわれの自我そのものを見ることはできない、われわれはそれで在るより他はない。われわれは現在起こりつつあるのではない何らかの出来事においてしか、われわれの自我を自覚することはできない。現在の一瞬はわれわれの思惟からすり抜ける、それはその一瞬がそれほどまでに「速やかに」去りゆくからではなくして、その一瞬について思惟することがまさしく、その一瞬をば一定の合い間に置くこと、つまり過去か未来かに置くことに他ならないからである。思惟することが時間を作るのである。ところで、自我はそれ自身の合い間に位置することはできない。それゆえに、すべての了解はみずからを了解することであるというのは甚だ誘惑的な言い方だとしても、実はむしろ、すべての了解は、自我で在ること、でき得るかぎり根源的な愛する自我であること、を介して、そうしてまた、でき得る限り、恐怖し、予見し、対象化し、否定する自我でないことを介して行われるのである。この自我、根源的自我であるということ、但しそれが非・我の知覚のかたちであらわにされる場合を指してわれわれはそれを、はじめて本来的に了解と呼ぶことができるであろう。 一つの視る・出来事は一つの聴く・出来事よりも、接触・経験としての意味が遥かに正確に現れてくるものである。物 ー を ー 視ること、は、とりもなおさず、ある一定の物であってその他の物でないものを、意味づけることである。君がある一つの物を視るならば、君がそれを聴く場合よりも、その物をその他の実在からより鋭く識別することになる。識別のこの鋭さがとりもなおさず、大きさと形と呼ばれるものである。 視る・出来事は、ほとんど不可避的に、そのものが徴候としてもつ象面にわれわれを関係せしめる。われわれが物を視るとき、われわれの意識の働きは習慣的に分解→の方向に向かう。 一つの芸術作品と他の芸術作品との優劣を、技術の原理に訴えて極めることは不可能である。そこに必要なことは、すべての芸術的技術がそれに向かって案内役となっているところの当のものを説明することである。それは何であるか。それは一つの意識状態である。
『ものの考え方 - 合理性への逸脱』オズワルド・スチュワート・ウォーコップ/著、深瀬基寛/訳,第八章 美学より抜粋し引用。
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