エピローグ 超える
『森は考える』は、森のように考えることを目指している。つまりイメージをもって考えることを。
象徴的なるものを、それを収めるより広い記号論的領域のうちにある表象様態のひとつのたぐいに過ぎないものとする見方を習得することで、私たちは次の事実を認識できるようになる。すなわち、それ自体が全体をなすにもかかわらず、そのかなたへと「開かれた」社会文化的な世界ーー複合的な全体ーーのなかで私たちは生きている、という事実である。
しかしそのような開かれた状態を認識することで、いもづる式に出てくる問いがある。それは、私たちと、私たちが構築する社会文化的な世界を超えたこの世界とはいったい何なのか、という問いである。
二元論は人間であることと「がっちり手を組んで」いる。というのは、私たちの二元論的な傾向(スフィンクスの言葉でいうと、私たちの「二本足」)は、人間的な象徴的思考ならではの特性から産出されたのであり、また、そのような思考本来の論理が現実世界にある指示対象から根本的に分離していると思われるような記号体系をつくりだす仕方から産出されたとみなすことができるからである。
そのため、ニで考えることは、人間的であることが意味するものに深く埋めこまれており、そしてこのように両手を使って考えることを超えていくためには、人間的なるものを異化する真の技法が欠かせない。つまり、ここで私たちに求められるのは、私たちの思考を脱植民地化する困難な過程を引き受けることである。ほかのたぐいの思考ーー人間的なるものを含みかつ支える、より懐が深くて広い何らかの思考ーーが可能になる余地をつくりだすために、私たちには言語を「地域化」することが求められる。この他なる思考とは森による思考、すなわち、生命に固有の論理を増幅するようにして森の生ある存在と親しく関わりあう、ルナ(やほかの人々)のような人々との生を通して自らのありかたを考える思考のことである。
生ある非人間的な存在は、構成的に記号論的であるということが、彼らを自己たらしめる。これら非人間的な自己は思考する。そして非人間的な自己による思考は、様々な自己のあいだに関係をつくりだす、ある形式の連合である。
形式はそれ自体で実在すること、また、形式は世界て創発し、そして人間と非人間が利用する特有の作法のおかげで増幅される実在であることを論じている。
諸々の一般は実在する。精霊やスフィンクスでさえ実在する。同じく、かなたのライオンたちも。
これら二種類の一般ーー人間的なるものを超えた生ある一般と人間的なるものに特有の一般ーーが森に宿る諸自己の生態学のうちに独特の仕方で一般に保持されることから生まれ出る、創発的な実在である。
創発とは、断絶の間にある繋がりをたどるために用いた専門用語である。超えるは、より広がりのある一般用語である。人間の言語を超えて記号過程があるということは、言語が、言語自身を超えて広がる生ある世界の記号過程と繋がっていることを、思い出させる。
あらゆる生命を超えた死が存在するということは、私たちを今の私たちたらしめる全ての不在の死者によって開かれた空間のおかげで、私たちの生命を通過して型が労なくして増え広がっていくことに注意を向けさせる。
ーー人間的なるものを超えた世界があまりに人間的なるものによってつくり直されている、この不確かな私たちの時代ーーを生き抜くには、私たちは森とともに、そして森のように考えるいくつものこうした道程を、積極的に切り開いていかなければならない。
レヴィ=ストロースの黙想が取り上げたのは、人間的なるものによって飼いならされることもあればそうでもないこともある、あるたぐいの思考である。
私は、「ここ」にいる私たちには感じられ、かつ同時に「かなた」で私たちを超えて広がる、ある一般的なものについて何かを示そうと試みてきた。このようにして私たちの考え方を開くことで、より大きな〈私たち〉ーー私たちの生命のうちにのみならず、私たちを超えて生きるものたちの生命においても繁栄するひとつの〈私たち〉ーーに気づくことができる。それは、いかに質素であろうとも、私たちからの、生ある未来への贈り物となるだろう。
『人間的なるものを超えた人類学 森は考える』エドゥアルド・コーン/著、奥野 克巳・近藤 宏 /監訳、近藤 祉秋・二文字屋 脩 /共訳